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仕事の本当の意味

心を閉ざしている人に、何を言っても無意味なときがある。
そういう場合は徹底的に追いつめて、壁を力で破壊するのも一つの方法だ。
もちろん、これだけが方法ではない。

ただ、追いつめられた時、ほんの些細な一言で心を開く場合もある。
北風と太陽の寓話のように、最善は愛を感じることが一番だ。

しかし、ただ暖かくすればいいのかというと、そう単純ではない。
寒さと熱さ、厳しさと優しさ、両極が必要だ。極端な方がより変化が早い。
厳しい時は徹底的に厳しく。優しい時は徹底的に優しく。

いずれにせよ、中途半端な状態では何も出来ない。

「どうせ他人にはわからないんだよ」と自分の殻にこもっても、
いつかは自分をわかってもらいたいと思う時が来る。
それを待つのも愛の一つの形だ。

ただ待つだけでは芸が無い。そう思うよう仕掛けていく。これが本来の仕事の意味だ。
悟りたい、魂を成長させたい、心を豊かにしたいと願うように、仕掛けていく。

向かいすぎて、相手が開き直ったり、居直る場合もあるだろう。
相手に胆力が無いと問題と向かわずに逃げてしまう。逃がさないようにするのも愛だ。

諦めたらおしまい。
諦めなければすべてがプロセス。向かい続けることで、終わりよければすべて良しになる。

自分が諦めたら、相手も諦める。
「まぁいいか、しょうがない」
「ご縁が無かった」
「あいつは馬鹿だ」
「時期じゃない」
などは自分の逃げである。諦めずに事を仕掛け続ける。

働くとは傍(はた)を楽(らく)にするという事だという。
本当の意味で、周囲の人を楽にするとは何だろうか?
人を幸せに導いていくことが、人間の本当の仕事である。

いつも目の前にヒントがある。それをヒントに仕事をしよう。


心の壁

アニメ「エヴァンゲリオン」でATフィールドという言葉が登場する。
いわゆる、心の壁のことだ。心の壁はなぜあるのだろうか?

自分を自分として維持するためには、外の世界との境界が必要だ。外の世界を簡単に受け入れていたら、混ざり合って影響されすぎてしまう。内の世界を維持するためには壁が必要だ。しかし、閉じたままでは濁り淀んでしまう。また、インプットがなければ、アウトプットもない。

どんな情報を内に入れるか?基本的に大半の人は、頭が判断している。自分の概念、常識をもとに、理解できる情報だけを取り入れていく。抵抗も葛藤も少ない世界。簡単なことだけしていると進化が起こらない。無味乾燥とした世界になる。

逆に、何でもいつも受け入れていては、自分がなくなる。周囲や環境に影響されているだけの反応者になる。自分がない世界もつまらない。心を殺して生きるしかなくなる。その反動は大きなものとなって自分に返ってくる。

心を開くときと閉じるとき、心は心に反応する。想いは理性を超える。自分の心に聞いてみる。今は素直になるべきか?それとも頑なになるべきか?見極めは自分の責任だ。慎重に聞くがよい。

自分がわかれば、相手もわかる。
ATフィールドは、ATフィールドで中和できるのだ。

その時、心の壁は違う性質をもつ。

本質の問いとは?

人間は一人では生きていない。
都会にいて周りを見渡せば、目に見えるものすべて、誰かが作ったものだ。
道路、電柱、家、車、等など。

いま目の前にあるご飯だって、作ってくれた人は勿論のこと、農家の方、輸送業者の方、販売店の方、商品を並べる方、レジを打ち会計する方など、挙げていけばたくさんの人間が関わっていることがわかる。

呼吸できるのも、酸素を植物などが光合成してくれているからだ。そもそも、地球や太陽がなければ、我々は一瞬たりとも存在できない。惑星が存在し、その上で生命が命を繋いできたからこそ、いま我々は生きている。

その原点への感謝を忘れて、つまらないことに一喜一憂して人生を送っているのが大衆だ。本当に大事なことは何だろうか?この人生で何をしたら満足するのだろうか?いま目の前の問題は何を示唆してくれているのだろうか?

本質への問いは忘れやすい。また本質の問いを自分に問いかけてくれる人もそうはいない。突然事故に会うとか、病気を宣告されたりしない限り、真剣に自分に問いかける人は少ない。

それでよいのだろうか?

目先のことに振り回されていても、充実して毎日を送ることはできる。ちょっとした達成感と満足感に浸れる。ではそれで何が残ったのかを検証したことがあるだろうか?

自分の何がわかって、何が進化したのか?またはしなかったのか。次は何をチャレンジしてみるか?

時には検証することも大事だ。独りよがりの検証は意味がないが、自分がわからなければ、同じことを繰り返す。その為に仲間はいる。自分を見つめてくれる仲間が欲しければ、まずは西麻布Birthか、沖縄のBirth lilacに是非きてほしい。

真剣に向き合ってくれる人間がそこには集まっている。
自分と向き合うのは大変だ。心のコストもかかる。しかし、一番投資効果が高い。幸せになりたければ、自分と向き合うのが近道である。





言葉を超えて伝わるモノ

先日、清水ミチコさんに妻がお会いした時、
「結婚式で泣いていた人元気?」と言われたよ、と教えてくれた。私は結婚式で号泣していたので、私のことである。結婚式の後、
「普通は泣く人は奥さんのほうで、男女逆でしょう!」とよく冷やかされた。


もう結婚式から4年以上経つのだが、未だに私が泣いていたことはあちこちで印象に残っているらしく、方々でこのことを言われる。
「おれ、いいこと言っていたのかな?」と一度だけ、結婚式のDVDを再生し、自分の泣いている姿を見た。これが本当に自分でも何を言っているのかわからない、嗚咽交じりの恥ずかしい姿だった。それ以来もう二度と見ていない。言われるたびに気恥ずかしい想い出だ。

結婚式以外でも、ある講演会のとき、話し始める前から感極まって泣き出してしまったことがある。来場者は面食らっただろう。出てきてすぐ泣いているのだから。我ながらバカだなぁと思うが、感じる力が強い時は、泣き虫でしょうがないのだ。

言葉でどんなに上手に説明しても伝わらないことがある一方、泣いてるだけで伝わることもある。どんな方法でも伝わればいい。上手に伝えようとしなくても、一生懸命に伝えようとすれば伝わる。

その姿や雰囲気だけでもだ。言葉に説明できないけど、なんとなく伝わる、なんとなくわかるのが一番なのだ。本当の感動は説明できない。存在するだけで訴える美術品などが良い例だ。

感動の涙を体験してしまうと、その素晴らしさに病みつきになる。映画や小説のなかではなく、現実の人生の中で体験する感動に勝るものはない。ジョイントでは毎回作り物ではない感動がある。一人の人間が真剣に向かい、自分の殻を破る瞬間に同席できる喜びは、言葉を超えている。あ、思い出したらまた泣けてきた。







自己愛

 自分でも本当は気が付いていたけど、直視するのを避けていたことに直面することになった。自分で自分を騙すのは簡単なことだ。追及する心を持たなければいい。何事も流れに任せてしまい、自己探求を怠れば、自分では前進してるつもりだが、実際は後退している。

簡単にいえば、
「楽したい」
「逃げたい」
「安心したい」
といった自己愛からくる欲求が湧きおこったとき、すぐその場で向かわず、
「まぁ今はいいか」と許した途端に心は落ちていく。元気がなくなり弱くなっていく。向かい続ければ、ドンドン心が強くなっていく!

自分もその癖が強い。何度も繰り返して自己嫌悪に陥るが、楽天的という逃げによってまた繰り返してしまう。嫌な思いをしなければ人は学ばないのだ。辛い気持を感じて、もう二度とこんな気持ちは繰り返したくないと心に刻みつけなければ、人はすぐ同じ過ちを繰り返す。

自ら動こうとせず、受け身でいるのも自己愛だ。私は今まで受け身でいすぎた。反省している。常に攻めていかねば、時代に取り残される。それだけ時代の流れが速くなっている。

自己愛は結局自分を苦しめる。目先の楽を得るために、将来の苦痛を受け取るのは割が合わない。今向かえば、それすらも楽しみになる。苦しいと思うのはやっていないからだ。実際はやってみたらそうではないのだ。

どんな世界も楽なところはないのだから。




どさくさの罪

 輩(やから)がよく使う手に、どさくさがある。

例を挙げよう。
例えば喧嘩をしていた、AとBがいたとする。そんな時、ワールドカップのサッカー観戦で盛り上がっている場面に出くわしたとしよう。Aはここぞとばかりに、友達と盛り上がっているBの近くに寄っていって、その友達たちの前で
「おお、今のプレイすごいなー。Bもサッカー巧かったよなー」といった感じで、喧嘩していたことをウヤムヤにしてしまおうとしたりする。さりげなく、
「この前は悪かったなあ」と本当に反省してるのかよくわからないまま、言葉だけの謝罪で済まそうとしたりする例もあるだろう。

つまり、どさくさに紛れて、こっそりと主張や気持ちを表現するのである。自分にやましさがあったり、筋が通ってないことなどをするときによく使われる。

周りの空気を読む人は、輩に「どさくさ」を使われやすい。仲良くもないのに、
「俺たち仲良しだよなー」といわれたとしよう。和気あいあいの空気だったら違うとは言いにくい。まぁいいかと認めてしまったとすると、その後、その場にいた第三者に対して輩は仕掛けるかもしれない。
「彼とは仲良しでさー」といった具合に、仲良しということを利用して、信用を得て入り込もうとする。

どさくさは、応用範囲が広い。共通しているのは、キチンと向き合って筋を通さないで物事を都合よく進めようとすることだ。イチイチ異を唱えるのは大変だ。その気持ちのコストを考えたら、しょうがないと諦めたり許してしまう。それを利用して、輩はどさくさに物事を進めるのだ。

こっそりと既成事実を積み上げて、ちゃっかりと筋を通さずに済まそうとする。本来自分にやましさがあるから、堂々と向き合わずに、こっそりと秘密裏にする。

今の政治が一番わかりやすい例だ。脱自民という主張で支持を受けたのに、いつのまにやら脱自民どころか、最初と違うことをしだしても筋を通さずに、どさくさにやってしまう。これは民主党に限った話しではないが、どさくさに紛れて法案提出や廃案にする例は、山ほど見つけられる。

何でもかんでもハッキリしっかりとケジメをつけろという訳ではない。日本人は曖昧が好きだと言われているから、何事も穏便にでやってきた。しかしそれを悪用されることもあることを知らなければならない。

キチンと認識しておかないと、後でどさくさを活用されて痛い目を見るのは、善良な人間のほうなのだ。「優しさの罪」でも書いたが、ドサクサを見逃した罪もあることを心に留めておかねばならない。

輩の手法をしっかりと研究して理解しなければ、輩に食い物にされてしまう。パーティや葬式といった空気では要注意だ。言いにくいことも、そういう場であれば言いやすいからだ。本来、一対一で向き合って話す事柄でも、どさくさに紛れて済ませてしまえる。

結局は自分に帰ってくるのだが、輩はラクしようと逃げる傾向にあるから使ってしまうのだ。どさくさを使う方も、使われた方も、心理的障害を乗り越えて向き合おう!嫌なことにも向き合えば、必ずご褒美がある。






霊を憎んで、人を憎まず

 罪を憎んで人を憎まずというが、我々は
「霊を憎んで、人を憎まず」と言い換えたりしている。

一般的に、整合性のない発言や行動をする人間は、矛盾していると批判されることが多い。私も一貫していない発言や行動を見ると嫌で仕方がなかった。しかし、そもそも自分自身も
「完全に矛盾がないか?」と問われたらそうではないし、むしろ矛盾をはらんでいることが人間の本質だ。

霊=人格と捉えると、感情や状態によって、同じ人間でも色んな人格がでてくるものだ。見た目は一人の人間だが、その中にある霊は一つということはない。主人格はあるが、状況によって霊は変わっていく。

霊に操られるか、自分で霊を操るか。これが魂の力だ。意識していなければ、霊に操られるだけだ。気分屋はまさにその例だろう。しかし、押さえつける意識が強すぎると、頭が強くなりすぎて感情を無くしてしまう。

感じていることを意識しつつ、自分らしく表現できるようになりたいものだ。

一流の役者は、その役に成り切る。その霊そのものになるのだ。だからハリウッドでは、役を落とすのに数ヶ月かけるのだ。ある芸能事務所社長も、
「自分の仕事は霊をつけたり、外したりが仕事ですよ」といっていた。

霊がその人のすべてではない。憎らしいことをしたとしても、人間の本質は別にある。変わらない人間もまたいないのだから、向き合い続けるしかないのだ。そこにお互いの成長がある。

聖書に、こんなシーンがある。ヨハネによる福音書の8章だ。イエスを試そうと罪人を連れてきて、
「罪人は石で撃ち殺せと法であるが、あなたはどう判定するか?」と問う。
イエスキリストは、
あなたがたの中で罪なき者が、まずこの女に石を投げよ」と答える。

また、アニメ「コードギアス」で主人公のルルーシュはこういった。
撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるやつだけだ」と。




優しさの罪

「あの人はそういう人だからしょうがないよ」とか、
「そういう見方もあるかもね」と相手を理解し許すことは勿論大事だ。

だが、時には、厳しく向かうこともなければ、その人に対して愛がない。
すべてを許していては、相手も自分も気付きがなく、お互いに成長はない。それは自分がラクしたいだけだ。

優しい人ほど、喧嘩や言い合いが嫌で許してしまう傾向がある。しかし、その優しさは自分が傷つきたくないという理由もあるだろう。喧嘩して傷つくのが嫌とか、言い合うのは疲れるとか、自分が傷つきたくなくてそうしてる場合もある。相手のためより自分のため。

全部受け入れれば良いというものではない。金持ち喧嘩せずというが、金持ちの子供が好きなだけ甘やかされた結果、どんな子供に成長するか?想像すればわかるだろう。

とかく、声が大きい人の意見が通りやすいものだ。だからこそ、人の気持ちがわかる優しい人が強くなり、毅然と立ち向かわなければならないときもあるのだ。

そして、立ち向かうには信念がいる。信念がなければ、相手に語る言葉もない。
優しい人ほど謙虚な気持ちを忘れないものだ。だからこそ、そういう人が強くなり発言をしなければならないのだ。そしていつも穏やかな人が、信念を持って語るとき、芯の強さがしなやかな強さとなり心を打つ。

向かわなければ、ただ優しいだけの人には見逃した罪がある。気付いていても、相手を認める論理(言い訳)で頭を納得させ、本心を隠す。立ち向かうには勇気がいる。優しい人なら尚更だ。相手を傷つけたくない気持ちがあるのもわかる。しかし、自分が向かわなければ、相手から成長の為の機会を奪っているともいえるのだ。

出会いはご縁。ご縁を活かしきるためにも、後悔のない関係を築くほうがお互い幸せではないか?


最小単位で最大効果

革命は3人から始まるという。真剣な人間が3人いれば十分なのだ。
キューバ革命でも上陸後12人からのスタートだった。その中でも
中心人物は、カストロ、カストロ弟、そしてチェゲバラの3人だった。

何かをしようとするとき、人数や資金など、とかく少ないよりは
多い方が素晴らしいと錯覚してしまう。企業においても、規模の
拡大追求がこれまで是とされてきた。 

確かに、大きいからこそできることはある。

しかし、大きいから何でも出来るという訳ではない。

むしろこれからは、規模の大きな組織は恐竜のように身動きが

とれなくなる。


時代の変化が激しいからである。

変化に対応するには大きいと不利なのだ。 

我々は、最小の単位で、最大の効果を目指してる。 

1万人の真剣でない人間を集めるより、一人の真剣な人間と連帯を

くんだ方がよほど価値がある。


大きくなると守らなくてはならないものが増えてくる。

小さければいつでも捨て身になれるのだ。失うものがない方が強い。


いざという時、

「家族のことで用事がありいけません」

「お金がないので難しいです」

「仕事の都合で・・・」

などと言い訳を始めるのが普通だ。

突然、「明日からベトナムいくぞ!」といっても、すぐにいける

人間じゃないと革命などできるわけがない。


本気ではない人間は、選択を迫ればすぐにそれが透けてくる。

我々は選択を迫り、本気でない人間は脱落していく。


来るもの拒まず、去る者を追わず。

しかし去ったものでも、またいつでも受け入れる。

小さくても、まるで核爆弾のような効果を生み出していくのだ。





ヘルタースケルター

人生の最後はどんなシーンだろうか?
そのことについて思案すると、私はいつもあるシーンが浮かんでくる。
実際に見たことがないのに、多分それは自分の臨終のような感じがする。
今回の生でそうなるのか、前世だったのか、よくわからない。

その時、満足して微笑んで死ねれば本望だ。

またそれとは別に、自分には自殺願望といったら変だけど、
死をもいとわず何かのために死ぬことに憧れがある。

生のための死。
死のための生。

どんな死を迎えたいか?
どんな生を送りたいか?

生き甲斐のある生。
死にがいのある死。

穏やかな長寿もよいが、今は短くても強烈な印象の死に惹かれる。
映画やアニメなどで、そういうシーンに出くわすと無性に切なくなり
感動する。

信念があれば、善悪を超えてしまう。

ただそれが独りよがりの自己欺瞞であれば、悲しみしか生み出さないであろう。



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