旧 日々、菩薩の道
 
正しさの罪
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     沖縄に来てからというもの、数百人の人たちを沖縄案内してきた。いわゆる観光地よりは、御嶽(ウタキ)という聖地や、自然、基地といった、観光ガイドにのっていないような場所を選んで連れて行っていた。

    沖縄に関わった当初は、沖縄が日本の中の南北問題のようであり、差別問題でもあると強く感じ、戦争も含めて、多大な犠牲を払った、沖縄を何とかしたいという想いから関わるようになった。良く言えば純粋な想い。悪く言えば、世間知らずで独善的とも言える、弱者救済という想いで突っ走っていた。

    大義名分から始まったが、次第に自分自身が沖縄で会った人々に救われたことで、この人達のために何とかしたいと燃えて活動するようになり、更には実は自分がしたいことが沖縄にあったと気がつかされて、人のためと自分の為が融合していった。

    最初、IT企業の仲間たちを、やんばるの山奥まで連れて行って、沖縄の現状を訴え、
    「自分たちが東京で安心してIT事業に邁進できたのは、日米安保があるからで、そのアメリカに一番恩恵を与えている沖縄に恩返しをしようじゃないか」と熱く訴えていた。
    「それなら政治家になったら」とよく冷めた声で言われたものだ。

    今思えば、稚拙なのだが、純粋に良かれと信じてやった挙句、IT経営者の仲間たちから距離を置かれてしまうこととなった。因縁には良かれと思ってやっても伝わらないということを学んだし、彼らには彼らの正義があることも考慮にいれなければ伝わるわけがないのだ。

    人にはそれぞれ正しさがある。今は、逆にIT企業の面々は、資本主義のスピードを早くして、社会の問題を露骨にしていく役目があると感じている。中途半端な状態より、トコトンやったほうがいいのだ。役目が違う人に、違う役目を頼んでも、それは押し付けに感じてしまう。

    自分には彼らのように上場させたり利益を出すために必死になることはできないし、またその能力はない。自分はベンチャービジネスというより、ビットバレー運動に燃えた、どちらかというと起業家より革命家志向だったのだ。自分は次世代のひな形を作る仕事が好きで、それをする役目がある人たちとは自然と縁もつながってくるのを実感している。

    ちなみに、高校の頃から、「パラダイムシフト」という言葉が好きで、その言葉を知った「パラダイムブック」という本を愛読していた。ニューサイエンスにワクワクしたタイプだった。その頃から革命が好きだったんだなと改めて思う。

    沖縄に関わりだした当時、熱心すぎて当時の仲間たちから距離を置かれたからこそ、新たな人間関係を作るしかない状態に追い込まれた。困らなければ、新しいキッカケを掴めない。あの時、身近な人達に拒絶されたからこそ、新たな人間関係がうまれ、次のキッカケを作る役割の人達と繋がれた。また、人と関わるのを避けていた自分だが、人と関わらざるを得なくなったキッカケでもあった。

    今でも、自分は当時の想いも考えも恥じることはないが、本当に何かをしたいのなら、自分の概念だけで凝り固まっては、小さな王国の独裁者でいるしかない。そこを勇気をだして飛び出すことで、新しい世界と繋がれる。わからない奴は、わからなくていいという想いも大事だが、わからないひとにどうしたらわかってもらえるかを努力し続けることも同時に大事なことだ。

    今、ビジネスで成功しようとすれば、想いは邪魔なのだ。本当に想いがあると儲からない。大量を求めるとどうしてもそうなるのだ。相手のために本当に想えるのは、多くても100人前後だ。それ以上になると、相手は友人ではなく、顧客となる。

    話を戻そう。自分の信念が強ければ強いほど、同時に相手へ違和感を与えてしまう。その正しさの罪も自覚した上で、その正しさを広げていけるか、器が求められる。清濁併せ呑むとはまさにこのことだ。

    器の大きさが大事で、その器を広げるには、狂信的な期間が必ず必要なのだ。そうした思い切りがないと、今いる居心地の良い世界からは抜け出せない。理性で冒険には飛び込めないからだ。

    かといって、いつまでも狂信的では世界は閉じたままで広がらない。その狂信者と大衆との間に入る、フォロワーがついて変化が加速しだす。人間、一人だけでは何も出来ないが、一人でもやり遂げてやるという覚悟がなければ始まりもしない。

    日常に生きている人をいかに非日常の生活へと導くかが、本当の仕事で、それが菩薩道だ。ただ、単純に正しさを訴えるのではなく、その危うさを自覚した上で、正しさの裏側にある想いを伝える、より高度な仕事が要求される。論理は伝えるのは簡単だが、想いを伝えるのは楽ではない。

    正しさだけでは難しいが、正しさなくして、何も伝わらない。矛盾の中に答えがある!



    【2013.06.06 Thursday 22:06】 author : oz
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    悪役の存在意義
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       北朝鮮が話題を振りまいている。恐らくほとんどの日本人は危ない独裁後進国家という視点で北朝鮮を捉えているだろう。別にそれを否定するつもりもない。確かにそう見える。良い悪いを言いたいのではない。ただ、その視点でかつて日本が見られていたかも知れないと、北朝鮮を見ることで我が身を振り返ってみたらどうだろうか?

      大日本帝国の3代目である昭和天皇は、25歳で最高権力者になった。同じ3代目の金正恩よりも若いくらいだ。まぁほぼ同世代で、カリスマ化もかつての天皇を真似ている。大日本帝国の日本は、今の北朝鮮より国力もあったわけだから、さらに恐ろしかっただろう。

      大日本帝国も自衛のためにとアジアのためにという大義で戦ったように、北朝鮮も自衛と民族統一という大義で戦っている。北朝鮮にとっても、韓国にとっても、周辺国にとっても、実は膠着状態が続いていてくれたほうが良かったから、こんなにも長い間体制が維持されてきた。元々は大日本帝国の領土であったことを忘れてはならない。因縁付けしてしまったのだ。関係ないことはない。

      世代が変わるということは、過去の経験がリセットされることでもある。また、因縁は繰り返すのは、個人でも民族でも同じ事がある。繰り返すといっても、必ずしも同じ事が繰り返されるわけではない。攻撃側が守勢側に回ったり、男が女になったりと、逆のことを魂が体験することもある。もし、自分が相手の立場だったらと想いを馳せるだけで二倍学べる。

      日々連続しているから、いつから流れが変わったのかはわかりにくい。振り返ってみたら、あのへんからおかしかったとか、あとからしかわからないから面白いのだ。

      人によっては、世界は平成7年7月7日から変わったという見方もある。日本は世界の最先端を走っている。世界の実験場でもある。原爆も原発も高齢化社会も、そして0金利も。日本のあり方が世界に考える材料を提供できるのだ。沖縄問題は少数派をどう扱うかというテーマだ。中国のチベット問題に対して、提案するのと同じなのだ。

      これからどんな社会を築きたいのか?量を追求することだけではなく、どのような質を目指すのか?世代間のギャップをどうやって埋めていくのか?世界にどう貢献していくのか?我々はそれだけの資質があることを誇りに持ちながらも、世界の中の一員としての自覚を持つべきではないだろうか。

      ある意味、北朝鮮は悪役という自己犠牲をしてくれているとも言える。天使とも言える。悪役がいなければ学びは少ない。でも本当は悪などないのだ。理性を持って冷静に見た時、相手に振り回されることなく、相手のウワテをとれるのだ。そうして導いてゆくのが菩薩道だ。

      文句や非難は簡単だが、それでは相手は頑固になってしまうだけだ。身近にいる北朝鮮のような人間にどう接するかで、自分の成長が試されるのだ。目先の人間関係の延長線上に、民族の関係もある。

      いまあなたならどう接するだろうか?


      【2013.04.18 Thursday 12:24】 author : oz
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      菩薩冥利に尽きる
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         想い通りにいかないと嫌な気持ちになるのが普通だ。仕事でも家族でも恋でも、自分の想いが伝わらないとか、理解不能な行動するとか、好きになってくれないとかで苦しい想いをする。それぞれ別のように見えるが、根っこは同じだ。相手の想いより、自分の想いが優先してしまうことで理不尽なように感じてしまう。

        かといって、相手の方が想いがあるとは限らない。また、想い方の違いもある。一概に比較はできない。その人なりの想い方も認めつつも、それに合わせすぎてもおかしくなる。考えすぎると段々わからなくなってくる。気持ちが入っている因縁関係であれば尚更だ。冷静に見る事は難しい。感情が入るとほとんどの場合水掛け論になってしまう。

        信頼や愛情はどこから生まれるのだろうか?

        何も問題がないほうが生まれるのだろうか?だが時間がある以上、物事は変わっていく。いつかは必ず変化が起き、同じ状態ではいられない。
        「このままの状態が続けばいいのに」と思う事もあるだろう。状態や感動が充実したものであればあるほど、終わった後、祭りの後の余韻は切なく、寂しくなる。逆に言えば、切なく寂しい気持ちを感じたなら、それは素晴らしい体験をしたという事だ。それだけ人生の質は豊かになっている。

        いつかは終わってしまう。生きていると同時に死に向かっているのが生命だ。時間は有限だ。であるならば、問題には早く向き合って体験した方が良い。辛い事も苦しい事も、過ぎてしまえば良い思い出に出来る。ただ、きちんと向き合ってこそだ。逃げてしまえばいつまでも心の痛みとして残ってしまう。

        それが悪い訳ではない。人間は痛い経験をしないと学ばない。しかしいつかは、その体験を克服し、次の世界へと旅立つ時が来る。卒業は寂しいが、また新たな世界も待っている。卒業したからといって、全く関係なくなる訳ではない。本人の霊魂に刻まれた体験は永遠のものだ。二度と同じ体験はできないからこそ、愛しく切ないのだ。

        辛い体験も問題も、今だからこそ体験できる事だ。今しか体験できない。同じ時間を共有できることの素晴らしさは、後になってわかることだ。今分からなくてもいい。勿論、分かった方が良いが、分からなくても構わない。いつかは分かる事だ。

        逆に後で分かった方が、感謝や感動、切なさは膨らむ。と同時に、
        「なんて自分は世界が狭かったのか」と恥ずかしくなる。その気持ちををまた次のエネルギーに代えられる。次こそは一期一会を大事にしようと。

        人は皆未熟だからこそ、この世に生を受けて体験している。同じ仲間だ。それぞれが助け合って、最適な経験をできるよう無意識に協力し合っている。一人ではできないことだ。敵でさえもありがたいことだと頭ではわかる。心では納得できないものだ。無理に納得しようとするとおかしくなる。嫌なものは嫌で、素直でいい。

        ただ、その嫌なものの先に光がある。

        どの道も楽ではない。この言葉に自分はどれだけ救われてきたか。どうせ辛いのであれば、魂の糧になる辛さが良い。辛いからこそ愛しい。見えないからこそ希望がある。自分の限界、試されている飛躍の機会、大きな喜びの前には必ず試練がある。

        試練に向かっていると、時に思わぬご褒美がある。

        回数にして言えば、ほんの数回しか合っていなかった男性がいた。後から聞いたが、私の事を相当怪しい人だと思って警戒していたという。彼は科学者で真面目な方だ。それに引き換え、自分は何者か不明な人間で、ネットで調べたら怪しい話ししか出てこない。それは警戒するだろう。警戒しない方が変だ。自分でもそう思う。

        それでもご縁があって、信じて沖縄にまで来てくれた。来てよかったと感動してくれたが、そういう感動を味わう前に想いのこもった行動をしてくれていた。感動したからしたのではない。時に人は説明のつかない行動をする。本当に大事な事は説明などつかないことが多い。

        彼は私の肖像画を描いてくれていた。一日で集中して、それを書く為にネットで写真を集め、ひたすらどんな人間かを考えて集中して書き上げてくれた。ただ、肖像画を描いてくれたから嬉しいというだけではない。

        よくわからない人間の為に、そこまで時間と労力をかけてくれたのだ。そうさせたのは、自分の代わりに会って話していてくれた仲間の存在のお陰だ。想いがある彼らのお陰で、私もそうした魂を持っていると彼の霊魂は感じてくれたのだ。

        肖像画のプレゼントをされて、改めて色々あったけど、沖縄や仲間を信じてここまでやってきてよかったなと報われた気分になった。幸せは予期せぬタイミングでやってくる。エネルギーを貰い、また更に頑張れる。濃い体験が出来て本当に菩薩行は素晴らしい。確かに大変だけど、それだけの価値があるよと、皆さんにも菩薩の道をお勧めしたい。


        【2012.10.06 Saturday 11:23】 author : oz
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        視点の拡大
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          目の前のことにハマりすぎると、視点が狭くなる。日々の仕事に埋もれてしまうと、何のためにそれをしていたのかを忘れがちだ。大事を忘れて小事にハマりすぎると、大事を失うことにもなる。

           かといって、小事をおろそかにして、大事は成し遂げられない。基本は目の前のことができなければ、その先もない。ただ、時には小事だからこそ、大事のために優先順位を考えることも出てくる。目の前の仕事をやり遂げようとするあまりに、大きな仕事のチャンスを失っては元も子もないからだ。

           コツは、自分で気付こうとしないことだ。 自分ではどうしてもハマりやすい。客観的に見てくれる仲間がいると心強い。
          問題にハマっていないか?
          いま優先すべきなのか?
          意識を向ける先が違うのではないか?

          問題は単独では存在しない。つながり合っているからこそ、そこだけを見ていては「木を見て森を見ず」となる。バタフライ効果のように、全然関係ないと思われることが関係してるかもしれない。日本流に言えば、風が吹けば桶屋が儲かるだ。

          桶を何とかしようとしても、風が吹かなければどうにもならないのかもしれない。見えないこと、分かり難いこと、一見遠回りに見えることから挑戦するのがいい。難しいことからやるべきだ。簡単なやり方はいつでも出来る。いつでも出来ることからやるのではなく、いつでも出来るからこそ、それを取っておいて、難しいやり方から挑戦するのだ。

          1+1=2
          当たり前だ。しかし、
          1+1=6
          1+1=11
          にならないだろうか?と発想を飛ばしてみる。すると、思いがけないヒントが見えたりする。そこから独創は生まれる。

          ビジネスマンだからビジネス本しか読まないのは世界を狭くしている。関係ない世界と触れることで、新たな気付きが得られる。

          この世の真理を最初に見出したのは、宗教や芸術だ。感性が先で、あとから論理がやってきた。科学にしたって、先に仮説があって検証してきたのだ。だからこそ、美意識が必要なのだ。ビジネス上の問題を解決するのでも、センスがあるのか、センスがないのかで、全然違ってくる。

          どの世界にいたって、道を極めるには苦悩が必要なのだ。どんな道も楽ではない。センスは簡単には身につかないのだから。
          【2012.03.03 Saturday 23:16】 author : oz
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          宗教とビジネスの間
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            旧暦のお正月を迎えた。そして新月の日。今年は貴重な天体ショーも多い。自然と密接に関係していた農業時代から工業・情報化時代となるにつれ、暦(こよみ)や天体による影響を意識しなくなってきた。意識しなくとも、人は無意識にその影響を受ける。

            また意識していないつもりでも、意識していることに自覚していないこともある。例えば、初詣、結婚式、お葬式など節目節目で宗教儀礼に参加している。祈るとかお祝いとか、心に関係している儀式と宗教は密接に関係している。無宗教と日本人はよく言うが、日本人ほど宗教好きはいない。ただ、それを自覚していないだけだ。

            それはそうと、一般的に宗教というと怪しいとか、怖いとかステレオタイプな反応が生まれるよう、戦後は刷り込まれてきた。宗教アレルギーになるように洗脳されてきたわけだ。宗教にハマっている人は危ないとか、そこで宗教的なモノに対して拒否の壁が生まれ、冷静に考えることもできない。

            よくよく考えてみて欲しい。これは何度も言っていることだが、儲かるとはなぜ信者と書くのか?製品にしろサービスにしろ、それが好きな信者がいなければ儲からない。最近ではAppleがいい例だ。アップル教ともいうではないか。

            ビジネスとしてアップル目指す人でも、アップル教を理解できなければ、ビジネスとしても実現できない。多かれ少なかれ、信者がいないような会社は発展しないのである。一昔前であれば、松下電器産業が松下教と言われたものだ。

            松下幸之助も、天理教に影響を受けてビジネスに活かした。明治維新に始まる国家神道も、国民を一つにするための施策として、神道を利用したに過ぎない。

            心がテーマの時代になっていくのは間違いない。だから昨年は絆が流行語を取った。でも、絆の作り方がわからなくなっている。心をテーマにした時、宗教的要素は切り離せないものなのに、アレルギーがあるために、絆も限界がある絆になってしまう。

            宗教にハマっている人からみると、ビジネスなんてくだらないと見える。あの世に持っていけない金を稼ぐことに血道をあげて時間の無駄使いだと。
            ビジネスにハマっている人からみると、宗教は現実からの逃避や馬鹿な人だと見える。どうせ現実に打ちのめされて逃げているだけだろう。もしくは、論理的ではない、科学的ではない、無知な未開人たちだと見ている。

            どちらも間違っている。ビジネスで成功した人ほど、宗教に走っていく理由がわかるだろうか?物質の満足は限りはあるが、心の満足はきりがない。どこまでいっても先が見えない。市場としては底なしだ(笑)

            心に偏りすぎても、現実が見えなくなる。現実に偏りすぎても、心が見えなくなる。宗教どっぷりでも、ビジネスどっぷりでも、真理は見えない。人間としての価値は何だろうか?高貴で理解力と包容力がある人格者だけが価値ある人だろうか?

            どうしたら価値ある人になれるか?
            どうしたら価値ある会社になれるか?
            これは密接に関係している。会社を構成しているのは、人間だから当たり前な話だ。

            いまはカネを稼ぎ、人格者である人間が価値あることになっている。本当にそうだろうか?本当の人格者とは何だろうか?

            私はこの広い日本の中でも珍しい立ち位置にいると自覚している。

            ビジネスもわかるし、宗教もわかる。
            東京(頭の世界)もわかるし、沖縄(心・霊の世界)もわかる。
            大衆もわかるし、特別な人間たちもわかる。

            いま自分が手がけている会社たちでは、特別な新時代のやり方を体現している。そうしたことも今後は書いていく。

            【2012.01.23 Monday 11:19】 author : oz
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            ひとつになること
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              人に伝えること。知識(頭)を伝えることがあっても、想い(心)を伝える機会は少ない。それが現代ではないだろうか。例えば、会社に新たな仲間を迎えるとしよう。普通の会社のやり方では、想いは伝わらない。想いありきではなく、仕事ありきで入社となるからだ。

              普通の組織では、売上や利益などの拡大・増大が成長の指針となる。勿論、それが間違いではないが、利益と想いのどちらを取るか?となれば、利益を取るのが普通の会社だ。想いの成長という指針は目に見える形にしにくいからでもある。心は見えないからと、どれくらい想っているのかを感じようとすることはない。感じるためには手間暇がかかるのだ。

              じゃあ想いは測れないのか?測れるのだ。覚悟という形で、想いを見せることはひとつの例として出来る。他にも、必死に訴える。信じる。委ねる。などなど行動で想いを測ることもできる。勿論測れない想いもあり、それは感じるしかない。

              普通の会社であれば、給料があって当然だというスタンスだ。生活のために入社するのだから当たり前だ。受け入れる方も、入る方も、どこまでいっても契約という形の中での、想いということになる。生活が保証された上での想いだ。ないよりはあったほうがいいという立場だ。となると、想いがある人が作った会社も、段々と想いが薄まり、想いがある人と、想いはないけど、人の想いを今だけ手伝う人とに別れていく。

              当初は生活よりも想いを優先して始めたことも、同じ熱をもって一緒にやる人はそうはいないのだと気がつくにつれて、自分の想いを実現するために、お金をあげるからやってくれる人を探そうとなり、その中でも、想いを比較的持っている人にお金を払おうとなる。最初からお金を儲けようという想いであれば、同志は見つかりやすいだろう。しかし、そうした気持だけでは発展しないのが相場である。誰しも、自分の得になると感じない限り、応援することはない。「一緒に儲けようぜ」も、うまくいっているときはいいが、上手く行かなくなった途端に破綻する。

              社会では、露骨や正直であると問題が生じるため、本音を隠した社交辞令で動いている。会社に入る人も受け入れる人も、それぞれ別なことを欲している。
              ・楽して金が欲しい人(ほぼ全員)
              ・自分の成長のための職場を求めている人
              (自分の想いが優先だけど、今は金のために妥協している)
              ・好奇心を満たしたい人(知識欲のため)
              ・言うことを聞いてくれる奴隷が欲しい人
              (自ら考えたくないので奴隷になりたい人も)
              ・自分を儲けさせてくれる人(傭兵)
              こうしたことを露骨に言うとカドがたつ。

              それを隠して、綺麗な形式的な形に変えて伝えていく。綺麗事を言っても、入ってしまえばそれが嘘だとすぐにわかる。それでも、綺麗事の戦いはやめられない。お互いに暗黙の了解で、最初から綺麗事だとわかっているからだ。狐と狸の化かし合いである。

              こうして現代人は、心が感じなくなっているので、表面的な言葉にとらわれて、本音を見抜けないまま、頭を使った化かし合いを続ける。想いなんてことよりも、いかに期日までに形を作るかのほうが優先される。だから、心ない人でも、形にできる方が評価されていく。

              家庭で言うと、女性がただ寂しいだけのことが言えずに、
              「約束したじゃない。なんで帰ってくるのが遅いの!!」と怒るようなものだ。そこで男性は、寂しいという心を理解せずに、
              「仕事だったんだからしょうがないじゃないか。金がなければ暮らせないぞ」と、相手の表面の怒りに反応した、自分の怒りを隠して、形式の戦いに入っていく。

              なるべく本音に近いほうが、人も熱心に働くということで、やる気の動機づけを一生懸命あとからつけようとする。順番が逆である。本来であれば、自分がやりたいから入ったのなら、お礼としてお金を自分が払うのが筋だ。昔は、だから丁稚奉公で住み込みで奉仕しながら学ばせてもらっていたのだ。自分のために学ぶから、自分の時間を売るに意識が変わったから、今の考えが常識だと勘違いしている。
              「経験させてもらえて有難いから授業料を払わないといけないな」そういう気持ちであれば、給料をもらえたら、
              「本来自分が払うところなのに、逆に貰えて有難いものだ」と感謝を忘れない。

              「自分のためじゃない。お前のために時間を売ってやってるんだ」という本音を隠して、綺麗事で上手く回そうとするから、どこかにひずみが生じる。想いのある仕事を成し遂げようとするのではなく、金儲けのための仕事をするためと割りきっていれば話は早いのに。

              そのことを隠して、「お客のためにこうしよう!」と方法論を押し付ければ、押し付けられた方は心では拒否しながら、そのことを隠して、真面目にやっているフリをする。しかし、心のなかではイヤイヤに仕事するので、創意工夫もなく心が入らない。

              次に相手に気を使って、優しく相手の気持を引き出すようにしてみると、今度は自分を舐めてつけあがり、楽して終わらそうとしてまたまた出来が悪くなる。

              それではと、自分の姿を見せて解ってもらおうとしても、そもそも想いが伝わっていないのだから、誰も見ていない・・・。
              「一体どうすりゃいいのだっ!」 と自暴自棄となり、あの手この手で言うことを聞かせようと益々敵対的になるか、自信をなくし、うつ病になってしまう。

              優しい人間は、元々自分を責める傾向にあるため、こうした反応で魔界入りしてしまう。仲間同士でこんな話をしていた。
              「自分に自信を持てない人間は、弱いところを突かれて弱ったらそこまでよ」と。チームに責任を感じれば感じるほど、どうにも一つにまとめられない現実に打ちのめされてしまう。

              良い人はこういう風に考える。
              「頑固にならないように、相手の言い分にも聞く耳を持つようにしなければ」と。自信があって聞くのと、自信がなくて聞くのとで、結果は変わってくる。信念がなければ、結局相手の言いなりになってしまう。

              かといって、無理に自信や信念を持とうとしても、作った姿勢は不自然となり、相手に違和感を感じ取られ、違和感のある人間の言う事には耳を貸さない結末となる。違和感がある人が、このBlogで掲載しているようなやり方を表面だけ真似してもおかしなことになる。

              我々の世界でよく使われている言葉でも、悪用したら、エゴの想いが広がってしまう。

              「敢えて」を自分にも向けてではなく、相手だけに強要する。
              「自分で深めて」と真に相手のことを想ってではなく、自分が楽するために突き放す。
              「共有」を「ただの情報共有」としかとっておらず、
              「相手の想いを共有する」感じる事をしない。

              現代は、バラバラな状態だ。国も会社も家族も、個々に切り離されている。バラバラにしなければ金が儲からないからだ。一家に一台より、一人に一台なのだ。繋いでいくのは大変な作業だ。例えば携帯を一家で一台にするための労力を考えてみて欲しい。説得、譲り合い、我慢、不便利、もう想像するだけで大変だろう。一人一台にする方が圧倒的に簡単だ。お金で摩擦を避けられる。

              愛と感謝がなければ、お互いに繋がることはできない。

              自分と相手、どちらか一方だけでは無理なのだ。双方が共に繋がる努力をしなければ、ひとつになることはできない。目の前で一つになれなければ、世界も一つにはならない。

              ふたつ以上がひとつになった時の喜びは、個人が追求する喜びを超えるのだ。元旦の駅伝が素晴らしい教訓を伝えてくれたではないか。個人の偉業よりも、集団で成し遂げるからこそ、喜びも深いのだ。駅伝の結果という知識ではなく、青春を賭けたというそれぞれのチームの想いを感じることだ。それを感じることができたら、見知らぬ彼らともひとつになれる。

              自分の縁がある人と、小さくてもいいから何かを一生懸命に一緒に成し遂げ、ひとつになる感覚を味わうことが、世界を繋ぐ糸となる。

              【2012.01.09 Monday 13:11】 author : oz
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              あえてすることの意味
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                アレルギー治療についてのテレビ番組を見た。アレルギーを治すために、あえてアレルギー物質をとると。この「あえて」という言葉は、自分たちの世界では流行語である。

                 何でもそうだが、分かり難いと誤解が生まれやすい。人はわかりやすいのを求める一方で、その裏表で、分かり難さも求めている。どちらもある。わからなければ、不安がうまれる一方で、わからないからこそ希望もうまれる。

                分かり難いからこそ、分かった時の喜びも大きい。
                「実はそうだったのか!」と思いも寄らない結末であればあるほど、魂は喜ぶ。その結末をどこに持っていくか?すぐネタバレしてしまうのか、死ぬ間際にわかる壮大なドラマになるか?いずれにせよ、どんな人間も終わり良ければ全て良しとなる。

                自分と同じような考え方をしている者同士であると、意外だ!とか分かり難い、ということはあまりない。大体こう考えているのだろうなと想像できてしまうからだ。全然違う考え方をしている人間と出会ったならば、恐怖と不安のほうが大きくなるのが大衆だ。

                違うものを受け入れようとするよりも、拒否し排除しようする傾向にあるのが人間だ。歴史を見ると、異質なものを受け入れる文化は発展するが、拒否・排除しようとする文化は廃れていくのがわかる。

                しかし、自分にとって異質なモノ、嫌いなモノを受け入れることはそう簡単ではないのも事実だ。頭ではわかっていても、実践は難しい。

                ある人が嫌だ、苦手だと感じていることがあるとする。男性が苦手だとか、宗教的なものが嫌いとか、他人から変な目で見られたくないとか、何でもいいのだが、その嫌だという原因が過去のトラウマなどにあったとしよう。当然、自分自身はそういうことが嫌なのだから、男性や宗教的なモノゴト、他人から変と思われる行為、などを避けるだろう。

                目の前の人間が嫌がっているのを情(じょう・なさけ)でみれば、かわいそうとなる。トラウマを抱えているのだから、かわいそう、だから守ってあげようとか、慰めてあげようとなる。ではそれで本当に問題が解決するだろうか?

                イヤも嫌も好きのうちというが、本人がいくら認めないとしても、嫌いな反面、絶対に嫌いなことに興味が有るのだ。表と裏である。愛憎が表裏一体のように、嫌いなこと・苦手なことにはヒントが隠されている。そこに向かうことが自分を知るヒントなのだが、自分でそこに向かう人間はほとんどいない。

                情をかけてしまうと、本人の進化をストップさせているという見方もできるのだ。ストップさせることができるのだから、逆に進ませることもできる。真に相手のことを思うならばこそ、自分が嫌われることを恐れず、相手がトラウマに向かうような助けをするのが愛だ。愛情というが、愛と情はハッキリと違う。究極の愛は、相手の嫌だと思っている存在に自分がなってしまうことだ。

                相手が嫌だと感じていることをするのは心が痛いかもしれない。その痛みは表面上の相手の痛みを見ているのか?もしくは嫌われたくないというエゴの痛みなのか?相手からしてみたら、嫌な事をしてくる相手として、誤解して嫌ってしまうことのほうが多いだろう。愛が深ければ深いほど、すぐ相手に気がつくものではないから、どうしてもそこに時差はでる。でもいつかは伝わる。相手からの誤解を恐れず、その人のために必要なことをしてくれる存在こそが本当に愛のある人間だ。

                そういう人間は説明もしないから、余計に分かり難いし、誤解をされるのだ。なぜ説明しないのかと言ったら、聞かれないからだ。聞かれたとしても、その返答は臨機応変だろう。説明しても説明しなくてもいい。だが、聞く方はわからない人間だからこそ、いまその環境にいるのだ。それに尽きる。わかる人間は、説明しなくてもわかるのだ。

                一歩間違うと、愛のある人も、単なるレベルの低い嫌がらせをしている人間に見えなくはない。また、こうした視点を悪用して、自分の利益を追求する人間もいるから、言葉という限界を認識し、そのまま受け取るのではなく、しっかりと自分で深めて欲しい。

                「そうか、そうか、相手の嫌がることをするのが愛なんだ。じゃアイツは俺のことを嫌がっているが無理やり襲ってしまえ。いつかおれの愛がわかるだろう」と自分勝手に悪用する人間がでてくる恐れもある。このBlogに来られる方はわかっているとは思うが、相手に嫌な事をいつもしろといっているわけではないし、低レベルの自分勝手な迷惑をかけろと推薦しているのでもない。それも踏まえた上で、誤解を恐れず表現している。

                しかし、わかる人間にはわかる。視点が低い人には見えていないだけで、見守っている存在は確実にいる。少なくとも自分の良心は絶対に自分の行為を見ている。だからこそ、勇気と信念を持って、あえて嫌なことに向かって欲しい。


                高度な視点を獲得すればするほど、危うい世界に堕ちていく危険も増える。どんなことも正当化できてしまうからだ。その危険性は本人では気が付けない。だからこそ、仲間や師という存在が必要になってくる。自分一人であえてやろうとしないことだ。いつも自分は間違っているかもしれないという恐れを片側で抱きながらも、もう片方で絶対に間違ってはいないという信念を持つ。この極と極こそが、矛盾に見える一方で矛盾がない世界なのだ。

                アレルギー治療と同じで、何も考えずにただアレルギー物質を取ったら命に関わる。医者のもとで、入院して、細心の注意を払って、そこに向かうから結果がでるのだ。思いつきでぽっとやって成功するほど甘くはない。人間はそう簡単ではないのだ。だからこそ面白い。

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                【2011.11.21 Monday 13:13】 author : oz
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                本当の投資とは
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                   ギリシャからイタリア、そしてスペインへと次々に欧州各国の財政不安が飛び火し、終わりが見えない。ユーロはどうなるか?ドルはどうなるか?円はどうなるか?いつか日本にもその波はやってくる。数年後かもしれないし、数日後かもしれない。激動の2011年はまだ終わっていない。

                  資産を持っている人間ほど、一体どこにお金を置いておけばいいのかと不安でいっぱいだ。小金なら宝石や金などで事足りるだろうが、数億超えてきたらそうもいかない。不動産も地震が起きてしまえば一気に価値を失う。資産を集中させても危険、分散させても危険。じゃあどうしたらいいのか?真面目に考えれば考えるほど答えはない。

                  仲間が面白いことをいっていた。

                  「世間は、証券会社などの金融機関の商品(ファンド、株など)に出して失敗したら、しょうがないと自分も周囲も納得する。しかし、人間に対して投資したり、自分の知人友人、関係や縁があるような会社や土地などに投資したら、失敗も成功も関係なく否定的に見る。怪しいとか、えこひいきだとか、投資した人の責任を追求し出す。じゃあリーマンショックは?エンロンは?ギリシャ国債は?怪しくなかったのか?大きければ大きいほど怪しいとは思わなくなる。まして、投資した人自身も、ファンドや株などの投資失敗はすぐに納得し諦めるくせに、縁がある人や会社、土地などの失敗だと、途端に鬼の首を取ったかのようになることもある。本来社会のためになってるのはどちらだろうか?」

                  個人の色がついたお金が、金融機関の商品の色になることで、利益だけが判断基準のお金になる。利益を求めて世界を回り、利益のためには、人の生活などを考えている余裕などない。要するに儲かるのだったら何でもいいということだ。個々人の欲求を追求すると、世界は良くなるはずが、追求すればするほど世界はいびつになっている。

                  目の前のご縁がある人や場所のほうが、絆や信頼となるものではないか?そこに本来失敗はない。長期的に見た投資ほど価値を生むのだ。短期的な利益を追求する投資は、目先よく見えるかもしれないが、結局はババ抜きをしているに過ぎない。今までは、自分の人生の間はババ(ツケ)を避けられたが、スピードが早くなり、自分の元へとババ(ツケ)が早く帰ってくるようになった。

                  大衆は、金融機関を通すと投資をしても当たり前のような顔をするが、自分の縁を通して投資しようとすると不安な顔になる。金融機関はきちんとしているから大丈夫だと考えてしまう。金融機関ほど、人件費などのコストがかかっているのだし、損をさせても、友人でもないから心が痛まない。自分の友人知人より赤の他人を信じるのだ。

                  個人が資産を投資する、もしくは資産を守ろうとするとき、全くの赤の他人の金融機関などを頼るか、もしくは因縁の関係に頼るのが大衆だ。特に資産を守ろうとするとき、配偶者だったり子供に資産を渡すのが当然で、それ以外の選択肢は心にない。因縁を超えられないのが大半だ。別にソレが悪いと言っているのではない。皆そうだから、常識だからと疑うこともない。因縁には想い入れがあるから尚更だ。他人を信じて騙されるリスクは常にある。子供に渡しても、誰かに騙されるかもしれないのは同じ事だ。であるならば、信頼できる人間たちを残してあげることのほうが価値があるのではないか?お金で幸せは買えないのだから。

                  魚(お金)を残すより、愛のある漁師(愛と知恵の持ち主)たちを残すほうが、本当の投資ではないだろうか?赤の他人だろうが、自分の子供のように感じて、その子の幸せのために労力を惜しまない人間を残すほうが価値がある。お金を直接残すより、お金で人とつながり、絆と信用を作ることが将来のために本当に大事なことだ。金は消えても、絆は消えない。

                  他人なのに信じて託されたとしたらどう思うだろうか?ラッキーと思って自分のために使ってしまうような人間もいるだろう。そうした人間しか自分の周囲にいないのであれば、自分もそうした人間とたいして変わらないということだ。自分の周囲に契約書もなしに大金を託せる人間がいるだろうか?

                  本物の人間は託されたがらない。責任を感じるからだ。しかし、それでも相手のためを思って責任を背負う人間が本当に信頼できる。この見極めは簡単ではない。テクニックとして、一度断るといった手法を使う輩(やから)がいるからだ。

                  自分や家族のことを愛を持って見守り、自分たちの進化を手助けしてくれる存在との絆をつくるためにする投資こそ、本当に価値ある投資だ。その為には人に投資しなければ始まらない。そして、人ほどリターンの大きい投資はないのだ。信じて投資した人間が、坂本龍馬だったとしたら?ブッタやキリストだったら?彼らほどではないにしても、それなりの影響力を持つ人間になったとしたら、その周囲で体験できる価値は?自分も影響されて、自分こそが坂本龍馬になるかもしれないのだ。

                  自分が投資した人間が、ベンチャーを起こして成功したとする。彼に投資したのか?彼の作った会社に投資したのか?形はどうでもいい。人に投資するとは一時のことではない。一生の付き合いなのだ。その絆を作るための投資と考えなければ、一時の成功や失敗で判断する愚かなことをしてしまう。

                  人は原点を忘れやすいものだ。最初は人を信じたとしても、それを忘れて形式的なことに目を奪われる。人への投資は、成功も失敗もない。一生向き合い続けていく覚悟こそが投資なのだ。お金だけの投資では表面的だ。真の投資は、心の投資だ。どれだけ相手を想って、愛と知恵を与え続けられるか?それが価値ある投資だ。


                  自分の概念を超えた、信頼できる相手、仲間がいることの価値。そうした価値を作ることこそ本当の投資で、そのためにこそ資産も心もある。だから、本当の投資はお金がなくても出来るのだ。

                  目の前の相手に、愛と知恵を与え続けること。お金を出すのは勇気がいるが、一瞬のことだ。愛と知恵を与え続けることのほうが難しい。知恵がなかったとしても、愛は誰でも与えられる。

                  ただ与えているだけでは良い人として利用されてしまう。絆や信頼の作り方は教科書では教わらない。だから知恵なのだ。それがなければ、どんなに人に投資しようとしても、空回りになり、結局は人を信じられないとお金を信じるようになる。

                  愛と知恵を持つ人間を求めることが第一歩だ。ビジネスが上手な人間など腐るほどいる。本当に価値あるものとは何か?を知る人を求めることから、本当の投資は始まる。





                  【2011.11.18 Friday 11:42】 author : oz
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                  生け贄という仕事
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                     世界は生け贄(いけにえ)を通して進化する。

                    わかり易い例で言えば、イエスキリストだろう。近代で言えば、ヒトラーが一番の生け贄といえる。最近で言えば、小沢一郎氏や堀江氏などがわかりやすい。生け贄は、非難されることで、人々や社会に学習の種を提供するのだ。

                    生け贄は二種類いる。

                    意識して自ら生け贄になる者と、自らは望んでいないのに生け贄にされてしまう者だ。

                    前者の例が、岡本太郎だ。自ら進んで、自分を生け贄としてきた。太郎の突拍子も無い言動を、大衆は血祭りに挙げ、ボロボロに引き裂く。大衆は残酷だ。大勢の中の一人として埋もれながら、石ころを投げつける。よく知りもしないのに、変なやつだ、悪いやつだ、おかしい奴だと決め付ける風潮を自らも作り出し、それに乗って生け贄の儀式に参加する。

                    何かしようとするならば、どうせ非難されるのだ。どうせケナサレルなら自ら飛び込んでしまえばいい。この行動は、ただの「勇気」などという言葉で済ますことはできない。人間の尊厳に関わる、尊い価値あることだ。

                    誰でも、突然生け贄にされてしまうかもしれない。自ら望まなくても、誰かに狙われて、生け贄にされてしまったとしたらどうする?その時は、逃げまどって、泣き叫んだとしても無駄だ。大衆(相手)が満足するまでそれは続く。

                    しかも、現代は次から次へと生け贄を要求するから、生け贄にされる時間も短くなり、生け贄としての効果はもはや失われつつある。先週の事件のニュースを覚えているだろうか?そこから何かを学ぶことは少ない。共同体のための生け贄でなく、ただの公開処刑では、生け贄にされた方も報われない。報われない処刑をされるくらいなら、自ら飛び込んで生け贄の儀式へとリードするのだ。

                    突然生け贄にされてしまうからこそ、その日を怯えて過ごすのではなく、今、この瞬間から自らが恐れていること、嫌なこと、感じていることなどをオープンにして、立ち向かうのだ。痛みや辛さを感じることが一番の成長の種となる。そして、自分を犠牲にして、周囲に学びの種を蒔くのが、価値ある生け贄となる。

                    こんな質問をしたら馬鹿だと思われるし、相手にも悪いからと黙っているよりも、バカにされて傷つくことを恐れずさらけ出すのだ。バカにされたとしても、同じように感じていた誰かを助けることになるし、痛みがあるから心に刻まれるのだ。痛みなき成長はない。

                    あいつは馬鹿だと思っていたけど、時間が経ってみたら、実は敢えて馬鹿な質問をしていたのだと気づかれるかもしれないし、気付かれないかもしれない。いつかわかるかもしれないし、わからないかもしれない。生け贄とは、将来の成果を求めてするものではない。

                    信念の結果、そうせざるを得ないのだ。自分に正直に由って(よって)生きる、これが自由だ。自由に生きると、生け贄という仕事を引き受けることになるのだ。そして面白い事に、自ら進んで生け贄になった場合、時間が経てば必ず復活があるのだ。岡本太郎がいい例だ。短期的に本人は報われないかもしれないが、歴史的に見たら報われるのだ。


                    【2011.10.28 Friday 13:46】 author : oz
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                    嫌なことに価値がある
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                      人間関係のストレスで悩む人は多い。相手と自分、違うからこそ価値があるのだが、やっぱり自分は正しい、相手は間違っているとなりがちである。また、自分が間違っている、相手が正しいとだけなっても、自分のほんとうの人生を歩めない。

                      自分の時期や相手によって、自分の信念に従うときなのか、相手を受け入れるときなのかと自問自答して、悩み苦しみ、間違っているかもと恐れを抱きながら、勇気を持って進むしか無い。魂から納得して進む限り、どんな失敗も失敗でなくなる。それは学ぶべき課題となる。


                       「いい人」というのは大抵揉め事が苦手だ。

                       揉め事を好む人間は、揉めたら見返りがあることを知っている。

                       自分の思い通りにしたい時には、相手を嫌な気分にさせるのは有効な手段だ。

                       いい人やお金で問題を解決しようとする人は、妥協して解決を図ろうとする。しかし、それは相手の思うつぼである。毅然と対応しなければ、身も心もすり減ってしまう。

                       輩が、この世は揉めたもん勝ちだと思ってしまうのも無理も無い。

                       良い人間ほど、信念を持って戦わなくてはならないのだ。誰よりも争いを嫌う人間だからこそ、 争いを起こして利益を得ようとする人間には毅然と立ち向かわなければならない。 

                       いい人にとっては、それは苦痛なことだ。自分さえ我慢すれば良いと考えてしまう。それが相手に付け入る隙を与え、増長させてしまうのだ。間違ってる人間に、あなたは正しいとお墨付きを与えているようなものだ。

                      「あいつはそういうやつだ。しょうがない」は逃げである。

                       勿論、ただ喧嘩すれば良いと言っているのではない。向かい方も千通りある。一番大事なのは、方法論よりも、
                      「相手のためにも、自分の心とも戦って、問題に向かうぞ!」という自分の心のあり方なのだ。

                       自分が嫌だなと思うことこそチャンスなのだ。今回は、揉め事を例にしたが、嫌なことは何でもヒントになる。お掃除が苦手とか、料理が苦手とか、書類作成が苦手といったことでもそうだ。

                       自分の思い込みを超えて、新たな自分を創造するチャンスだ。 最初はどうしていいかわからないだろう。意識高く実践する内に体験することだが、それでもわからなければ、このブログからヒントをつかんでほしい。


                      【2011.09.30 Friday 13:01】 author : oz
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