旧 日々、菩薩の道
 
インターステラーと予告犯
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    「2001年宇宙の旅」、「コンタクト」、に続く映画である「インターステラー」はもうご覧になりましたでしょうか?監督であるクリストファーノーランは「ダークナイト」で善悪二元論では語れない話を表現しました。彼の映画では、以前も書いたヒースレジャーや、今回のマシューマコノヒーのように、ただのイケメンではない人物が重要な役割をしめています。

    マシューマコノヒーは、「コンタクト」では宗教学者役。今回は科学者の役。「コンタクト」では、主人公であるジョディフォスターの科学者に向けて「君が父を愛していた証拠をあげよ」と語っています。そして今作「インターステラー」では、まさに父が娘を愛していた証拠を幽霊として見せるのです。

    「インターステラー」では、父娘の絆編というPVがあります。


    因縁の想いは重いのです。だからこそ数々の人間ドラマが生まれ、血族が大切にされてきました。想いは強いほど重くなります。そしてそれはまるで重力が時空を超えるように、想いも時空を超えていきます。時を経ても、人が残した想いは引き継がれていくのです。

    コンタクトでもインターステラーでも、女性の科学者がキーマンになっています。女性が時代を開いていく、新たな世界を感じさせます。先が見えない時代に、信号を受け取りやすいのでしょう。直感というものによって道が開かれていく様子は、本映画でも描かれています。

    人は誰かのためになら死ねるのです。人類のため。家族のため。大義なのか、愛なのか、人それぞれでありましょうが、想いは自己犠牲へつながり、愛となります。それは伝わるか伝わらないかは問題ではないのです。

    本作では、人間関係からチャンスが生まれ、そしてまたそれゆえにピンチが生まれます。ピンチでさえも諦めない姿勢が次のチャンスへとつながる様子が描かれています。壮大で前向きになれる映画です。

    本作のキーワードには「マーフィーの法則」があります。
    "起こる可能性のあることは、いつか実際に起こる”
    その根底には、逃げずに向き合うものには必ず神は見ているという信頼があるように感じます。

    「インターステラー」と対照的だなと感じた作品が日本にはあります。「予告犯」という漫画をご存知でしょうか?来年映画化もされますが、本作も誰かのためにという想いがキーワードとなっています。
     

    「日本の社会は人と違う生き方をする者たちに残酷です。仕事に就かなければ世間の目が冷たいし、失業すればそのまま社会からはじき出されてしまう可能性だってある。『予告犯』を通じて読者に訴えたいのは、こんな社会が正常なのかよく考えてほしいということなのです」。

    引用元: ネット世代の漫画家、筒井哲也がフランスでウケる理由 - ローラン・ルフェーヴル.

    と作者は語っております。「インターステラー」がエリートたちの想いだとすれば「予告犯」は庶民の想いと言えるでしょう。

    「インターステラー」ではディラントマスの詩がよく朗読されます。

    「穏やかな夜に身を任せるな。老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に。怒れ、怒れ、消えゆく光に」

    どんな時でも諦めるなと励ましているような詩です。

    予告犯では、よく言えば終わりの美学があり、足掻いたり見苦しいまでに執着したりはしません。マン博士のようなことは起きないのです。極限ではエリートだろうが何だろうが人間的な性質が垣間見えます。どちらも、誰かのためにという想いがありながら、紡ぐ物語は対照的です。

    どちらも深く考えさせられる作品です。作者の想いを感じ、自分なりに活かしたい作品です。


     
    【2014.12.01 Monday 13:06】 author : oz
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    オズ:はじまりの戦い
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      後に続く物語にも最初のキッカケの話がある。今回、ディズニーはオズの魔法使いのはじまりの物語を創りだした。国造りのキッカケだ。原題は、「Oz: The Great and Powerful」で、主人公のオズ役は、スパイダーマンのハリー・オズボーン役をした、ジェームズ・フランコ。

      個人的には好きな俳優だ。勉強好きで有名な役者だ。この映画、オープニングから万物を見通す目が出てくる。いわゆるピラミッド・アイだ。フリーメーソンのシンボルとして有名で、一ドル札にも描かれている。ちなみに、右目が絶対神ヤハウェの目で、左目が堕天使ルシファーの目と言われている。陰と陽だ。どちらかの目がでているか、ご自分の目で確認されたらいい。影絵の中にも今後の未来を予言している部分があるので遊び心で発見してもらいたい。

      元々の原作者も神智学協会で開眼したと言われている。そこで霊感に目覚め、「オズの魔法使い」を書き上げた。この世とあの世の構造は、千と千尋の神隠しと同じだ。似ているところが多々ある。構造は同じだから当たり前だが。今回の映画では、白黒がこの世。カラーがあの世、または特別な世界となっている。日常と非日常でもいい。

      因縁の流れで非日常へと誘われる。因縁付けから後に続く禍根となる。因縁を学ぶためにも面白い映画だ。羽の生えた猿はなにの象徴か?

      原作でも、知恵と心と勇気がない象徴が、カカシとブリキとライオンで表されていた。原作もこの機会にもう一度みたら面白いだろう。見方が変われば、全く違う映画になる。

      まだ公開したばかりであることだし、細かいことを書くのは野暮だろう。我々の邦創りとシンクロしていることが多々あった。邦作りの基礎は、愛と信頼が始まる。基礎のない建物はすぐに壊れる。簡単に基礎はできない。基礎ができてしまえば、あとは楽だ。やっと自分たちも建物を立てられる状態まで来た。あとは一気に加速できる。

      新ローマ法王が誕生した時期に合わせて公開は偶然か?意図的か?


      この映画は男向けのおとぎ話だ。邦作りに燃える男に観て貰いたい。
      【2013.03.23 Saturday 21:06】 author : oz
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      悪の教典
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        ますます怖い感じになってきた。周辺諸国との関係が悪い状況の中、内向きの話しばかりがメディアをにぎわしている。橋下氏や石原氏、そもそも日本は海外からどう見られているか?考えた事あるだろうか?小沢氏は結局無罪だったではないか。一体あれば何だったのか?よく考えたらおかしい事だらけだが、よく考えられないように誘導されている。

        我々の常識は世界の非常識だ。変わった国だと思われている事に異論はないだろう。憲法で軍隊を放棄しておきながら、自衛隊という軍隊を持っている。一体なんなんだ?と。オリンパスのように、表と裏が違うのが日本だと思われている。よくわからない危ない国ニッポン。原発事故や津波、地震で大変なときに、敢えて領土問題を起こしているように見られている。いまそれをやる必要がなぜあったのか?一年前に、尖閣諸島といっても知らない人ばかりだった。見た事も聞いた事もなかった島の事でのせられている。世界から見たら、
        「また懲りずに同じ事(戦争)を繰り返そうとしている」と見られても不思議はない。

        戦前と同じニオイがする。あの時も、よしやるぞと仕掛けたというよりは、やむにやまれずやるしかないと追い込まれていった。今回も同じだろう。もう導火線は引かれたのだ。あとはいつ着火するか?しかない。

        しかし考えようによっては、戦争で破綻しなければ日本の高度成長もなかった。大変な時代も来るが、逆にチャンスもたくさん出てくるとも言える。ピンチとチャンスは常に裏表である。もう日本は終わっている。終わっていないと考え、何とかしようとして更にドツボにハマるのだ。

        反面教師という言葉がある。悪いお手本を見て、真似はしないようにと学ぶことだ。人のフリ見て我が身を直せといわれるように、他人がやってくれればよく見える。反面教師で現代は満ちている。なんと学べる時代だろうか。

        教師と言えば、「悪の教典」という映画を観た。期待していないで観たが、なかなか深い映画だった。良い悪いということを抜きにして、本質を見る事で見えてくるものがある。誤解を恐れずに敢えて書いてみようと思う。真面目な人からは危ない人だと思われてしまうかもしれないが(笑)。映画を観ていない人はネタバレするので、ここから先は観終わった後に!


        この映画は、世の真理が現れている。人間世界の構造といってもいい。何かに突き抜けた人間が世界をかき回すのだ。そこに良い悪いはない。また、主演の伊藤英明がいい味を出している。彼はよく西麻布で遭遇したが、深く話してみたいとは感じなかった。今なら悪人正機説でも語ってみたい。人は誰しも天使と悪魔が心に住んでいる。その葛藤で学ぶ事もあるが、吹っ切れている人は葛藤がない事で学ぶ。

        世間的な話しをしよう。我々は欧米人の方が優れていると思い込まされている。その証拠に、主人公ハスミンは、京大をやめてハーバードへいったとある。そして外資系で働き帰国。優秀な人間は海外での活躍が不可欠というイメージ。海外で自分と同じ殺人者である白人を殺して、乗り越えたかと思いきや、更にレベルが上の白人に日本へと追放されてしまう。上にいるのは白人というイメージの刷り込み。

        また東大への情熱を燃やしていた生徒は、いざという時何の役にも立たずあっさりと殺されてしまった。東大行けるような人間も価値はないよと暗黙の刷り込み。どちらが優秀か?は本質ではない。そういうイメージを持たされている事に気がつかなければ誘導されるのだ。

        私がお得意のシャーマンの話しをしよう。最後まで助かった唯一の女性レイカ。彼女は何かを感じていた。だからこそ、いつも事件の中心近くにいる。映画の山場で、ハスミンの駒であった友達(ミヤ)がどこかにいくのを友達と目撃する。

        心配して見に行こうと友達は言う。いつもなら自分も一緒にいっていたのに、何かを感じて、
        「私は行かない」と。中途半端だ。友達が見に行かなければ、ハスミンの当初の計画通りのミヤの自殺だけですんだ。しかも、ミヤは助かっていたのが最後にわかる。

        しかし、直感を信じて友達を止めなかったから、悲劇が始まった。友達が見に行くのを止めていたら、大量殺人は起こらなかった。レイカの仲間のケイスケも彼女に止められたのに、好奇心で死への道を歩んでしまった。シャーマンだが、シャーマンの役割を果たせなかった。直感を信じて行動する事の難しさを象徴している。

        ちなみに、ケイスケ、レイカ、最後にレイカと一緒に残った彼(名前忘れた)で、いつもつるんでいた。彼ら3人で三位一体。頭が担当のケイスケ、心が担当のレイカ、魂が担当の彼。頭が先走るだけでは自滅する。心だけでは行動できない。いざというときに頼りになるのは魂の力。彼の魂の力があって、二人は生き残る事が出来た。

        ハスミン先生は、筋トレや工作など常に努力をしている。わずかな隙も見逃さない。隙があったから、モンスターペアレンツの家の周囲にあったペットボトルの中身を灯油に変えて死へと追い込むことができた。いつもチャンスを探している。盗聴器もあちこちにしかけ、準備に余念がない。生徒を殺すときも、人数を数えてリストに線を引く余裕すらある。

        ピンチになっても、ハスミンは行動してから考える。これが普通はなかなか出来ない。普通の人はピンチや予定外のことが起きたら、動揺して行動できなくなる。今回の例で言えば、ミヤの様子を見に来た友達の行動はハプニングだ。迅速に行動できなかったとしたら、見に来た友達が騒ぎだして大変なことになる。予定外であっても、殺してから考える。さすが仕事ができる!

        考えても、普通の人であれば、死体をどこかに隠しておくとか、あとで処理しようとするのが関の山だ。それは自己保身だ。それではくだらない結果しか生まれないし、誰に対しても学びがない。逆に問題に対して、もっと大きな問題をもってきて対処しようとした。ここがハスミンが仕事ができる証拠だ。

        全員殺戮なんて普通の発想では出てこない。あり得ない事に挑むからこそ、失敗したとしても次の展開につながるのだ。最後にレイカが、
        「もう次のゲームを始めてる」といったことにつながる。数人殺すだけなら、因縁などで誰でも出来るから最低だが、多数を殺せば英雄なのだ。多くの人を殺すには、良くも悪くもそれなりの人間でなければ出来る事ではない。多くの人を救える力は、逆に多くの人を殺せもする。裏表である。宗教がいい例だ。宗教で救われた人も多いが、宗教で殺された人も多い。

        話しを戻そう。ハスミンは無傷で最後まで殺人という仕事を終えていた。まるで天に守られているかのように、アーチェリーの矢に散弾が当たり、矢の軌道がそれて助かる。一方、矢を射た生徒は、因縁である好きな子のせいで思わず声を上げてしまい、ハスミンに殺されてしまう。ハスミンは執着がないから淡々とミスする事なく殺していく。親という因縁を既に殺しているので、因縁から自由になっている。

        「思い切り行こう」とか、「時間がないぜ」とか、鉄砲がことあるごとに彼にささやいていた。鉄砲のささやきは自身の深層心理。彼は自らの感性を信じて行動している。直感と論理のバランスが取れていた。だから後一歩まで成し遂げてしまったのだ。

        殺し漏れがないように、きちんと確認して念を入れて殺していたのに、最後の二人だけは確認をせずに詰めが甘かった。最後の最後が肝心という教訓でもある。終わったと思った時こそ、要注意なのだ。

        わかるとは思うが、殺人行為を推奨しているわけではない。だが、現実ではハスミンがしていることを国レベルで大掛かりにしているのが現実だ。その人間たちにも信念がある。このことについては長くなったのでまたにしよう。

        知れば知るほど、考えれば考えるほど、良い悪いは簡単には言えなくなってくる。
        【2012.11.18 Sunday 11:06】 author : oz
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        千と千尋の神隠しの密教2
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          千と千尋の映画には、さまざまな信号が隠されている。普通に解釈するだけでも面白いが、世界の真理の構造が描かれている部分は、文章では説明するのが難しい。歌舞伎で、歌舞伎特有のお約束事がわからなければ、本当の楽しみがわからないのと似ている。前提条件の知識がなければ、話を出来ないこともある。

          映画の中は常識を超えている。ファンタジーだから当たり前といえば当たり前だが、ただデタラメで根拠がないというわけではない。例えば、四季折々の花が同時に咲いていたり、月の満ち欠けと日数が合わなかったりするのも根拠と意味があるのだ。あの世とこの世。湯屋という遊郭の存在意義と象徴。

          かつて、性と聖なるものは同一であった。生命は性によって創造されるゆえに聖であった。性が隠されると共に、聖も隠れてしまう。昔、出産は命がけだった。生と死はいつも隣り合わせで身近にあった。性はいまや本来の意味から離れ、別の役割を与えられている。千が初夜にお腹が痛くなった意味とも通じる。なぜ痛くなったのか?

          映画の冒頭で、一家が乗った車は急ブレーキを踏み、ギリギリ車の性能のお蔭で事故を避けることが出来たように見える。父はイケイケで流行の車を所有し、仕事ができてそれなりに成功している。この世の父は、あの世では神様のお供え物を食べて豚になる。罪を犯した人でさえも、豚というお供え物になり無駄がない。活かされリサイクルされる。ここに経済の仕組みが隠されている。わかるだろうか?ちなみにあの世での父の役割は釜じいが担当している。釜じいも蜘蛛の糸や何本もの手足を駆使して仕事は出来るタイプだ。蜘蛛の糸の意味も深い。さらに燃やしたススから、ススワタリをリサイクルしている。長くなるから次に行く。

          美人だが冷たい感じの母は、父よりも先にお供え物を頂いている。聖書では、知恵の実を女性が先に食べて、男を堕落へと誘ったとされている。釜じいがあの世での父親役だとすると、あの世での母親役は誰かわかるだろうか?父と母、釜じいと母親役の人。感じるものがあるだろうか?この構造も説明は難しいが、もう少しわかりやすい千尋の構造から説明しよう。

          「千」と「千尋」。同一人物だけど二つの名前。一つのものを二つに分離。そう、これは不二の思想だ。千と千尋は別人だといっていい。千は千尋という名を取り戻し、日常へと帰還した途端に、千のときの記憶もなくしてしまった。あの世での記憶が残らないように。しかし、銭婆が言ったように、
          「一度あった事は忘れないものさ、思い出せないだけで」である。思い出せないとしても深層意識に影響している。無意識の影響は分り辛いから認識はされにくいが、性格と因縁に影響を与えるのだ。

          湯婆婆と銭婆も同じ不二の関係だ。
          「あたしたち二人で一人前なのに」という台詞でわかりやすい上に、顔まで同じ。そして彼女たちの顔はとても特徴的なわし鼻の要素がある。そこから連想すれば、誰が支配者かよく分かる。この二人の関係もとても対照的だが、なぜ力は銭婆の方が上なのだろうか?なぜ銭婆の方が一つ婆が抜けているのか?なぜ湯婆婆には抑えられなかったカオナシが銭婆の手伝いをするのか?

          ハクとカオナシの関係もよく考えたら面白いことがわかる。同時に存在するようで、最初の橋と最後の場面をのぞいて直接会う事はない。どちらの時もハクはカオナシに対して意識がない。色もハク(白)と黒(カオナシ)。ニガダンゴを食べたのも、この二人。ニガダンゴとは何の象徴だろうか?

          一体カオナシとはなんだろうか?錬金術をも使える力を持ち、際限なく膨らむ事も出来、本当の姿や声は仮面で隠されている。責任も取らず、取り方もわからない。話す言葉は他人の言葉。そういう存在も世界にはいて、持ち場がキチンとある。銭婆の下で働けば力があるだけに大きな仕事をする。湯婆婆のところでは下品であったカオナシも、銭婆のところではお行儀良くなっている。カオナシは見えない存在。表には出てこない官僚のような存在である。

          余談だが、トトロのさつきとメイも同じ不二だ。同じ五月という意味であるし、自分が自分を捜す構造になっている。風の谷のナウシカの、ナウシカNAUSICAAとクシャナCUSIANAAはアナグラムになっている。ポニョのお父さんのフジモトも、元は不二と連想させる名前だ。

          話しを戻そう。千尋はとても長いとか深いとかの意味がある。潜在してる本来の存在は深いのだ。表面意識と深層意識の関係を連想してみてほしい。そして深いと言えば、名を取られるとき、荻野千尋の荻の字が普通とは違っている。火が犬になっているのだが、この意味がわかるだろうか?よく深めてほしい。主人公の名字である。大事な意味がある。

          さて深い意味を持つ「千尋」から名を奪われた「千」は、一〇〇〇。ただの番号で数えられる数字である。数えられるのだから限界がある。ちなみに留置所では番号で呼ばれる。番号で呼ばれるのは辛いものだ。千というのは、ただのモノ扱いと同じである。奴隷状態の暗示なのだ。ちなみに、千三つ(せんみつ)という言葉を知っているだろうか?3という数字もあちこちで信号としてでてくる。例えば、カオナシが飲み込んだ人数は3人、千尋が滞在した日にちは3日、カシラの数といった具合に。数字の意味は深い信号だ。数字といえば、銭婆の住んでいる沼の底は何駅目だったか覚えているだろうか?また途中の駅にいた一人の影の少女は一体誰か?

          沼の底に住み一見地味な銭婆、油屋の最上階に住み、一見派手な湯婆婆。これは逆転の構図になっている。虚と実。世界は見たままの世界ではない。油屋の最上階にある坊の部屋。昼も夜も一瞬でかえられる。世界の切り替えが部屋にこもって出来てしまう。そこに籠りきりの坊。まるで引きこもったまま世界に影響を与える北朝鮮のようだ。湯婆婆のスイッチ一つで世界が変わる。この坊の顔、誰かに似ていないだろうか?

          油屋は大衆の世界そのものだ。いまや八百万の神でさえ通う場所になった。まさにお客様は神様で、マイナーな神様ばかりだ。その世界にお腐れ様という異端者がやってきた。実は彼は油屋の世界を破壊しにきたのだ。しかしその破壊者タタリガミも千によって鎮められてしまった。千がいなければ鎮められなかった。鎮めたことは良かったのか?悪かったのか?

          湯を大量に沸かすには自然破壊が伴う。もののけ姫のタタラ場と同じだ。破壊者が来るこのタイミングで千が来たのは偶然か?必然か?破壊者腐れ神は、薬湯という力を受けて無害な老人の仮面に変えられてしまった。破壊者本人さえも本来の目的を忘れて「良きかな」と思わされた。敵のが上手であった。一番の奴隷は、自らが奴隷だと気が付かない状態であることだ。もはや他に世界を浄化するところはないかのようだ。

          油屋の手先になった千の手伝い、導く役をしていたリンとは何か?他のナメクジ女たちとは違う。リンは美人で男っぽい。親切のようだがリスクは負いたくない。イモリの黒焼きのような餌があれば頑張る。油屋を出たがっているが、本気で出る気はない。金に目がなく、リスクがなければ威勢は良い。そつなく仕事をこなせて、他の人たちとは少し違う。そう白狐だ。狐がいるから舞台は進行する。油屋のメンバーが皆嫌がったトリックスター千の案内役だ。ちなみに、油屋はカエル男、ナメクジ女、ハク龍(蛇)の三権分立で成り立っている。そして超越者として湯婆婆がいる構造だ。リンも千尋の母も狐によく似ていると思わないだろうか?

          油屋の最高権力者である湯婆婆が見抜けなかったカオナシの金と、お腐れ様が残した砂金との違いはなんだろうか?湯婆婆は自分の子供も見抜けなかったが、千尋は両親を見抜いた。見る目があったのはどちらか一目瞭然である。力があるのと本質を見抜く力は違うのだ。見抜く力だけでも現実では通用しない。千はリスクだらけだが、湯婆婆には千や両親を失ったとしても何のリスクもない。かえって、千のお蔭で危機が回避でき儲かったようなものだ。良い悪いはないのだ。

          千尋は、千と名前を与えられて(これにも意味がある。名付け親、因縁づけ)湯婆婆と契約する。表面的に言えば、会社に入って肩書きを貰っているのと同じだ。そして、その会社のルールに縛られる。やがて本当の自分を忘れてしまう。千尋の尋は、尋ねるという意味もある。奴隷には尋ねる事は許されない。疑問をもつ奴隷は良い奴隷ではない。疑問をもたないうちに、自分の感情にも奴隷になっていく。表面的な喜怒哀楽の奴隷だったり、他者に完全依存したりする。なぜ「贅沢な名だね」と湯婆婆はいったのか?なぜ「良い名だね」と銭婆はいったのか?その他にも、トンネルの中での両親の会話、トンネルの最初と出口の壁、町にあった店の「め」の看板の事など、あげたら切りがないくらい意味があるものばかりだ。

          自分でどんどん解釈して世界を作り上げてみたらよい。宮崎駿氏が引退を投げ打って作り上げた作品だ。自らの錬金術を駆使し、紙から神を作り出し、人々を祭りへと誘導している。その祭りの祭神は何かを知らずに、人々はお賽銭を投げ続け、心にイメージを受け入れていく。陰極まれば陽となる。トコトンまで祭りもいけば、いつかは銭婆に輪を返せる日がくるだろう。良い悪いではなく、人生を生き切る為に、冒険をし続ける。冒険の死の恐怖でさえも怖くはないとボニョでは言いたかったのだろう。新しい世界を創る為には、原点と経緯、そして現実がわからなければ話しにならない。その為にこそ、この映画はあるのだ。

          【2012.07.07 Saturday 12:16】 author : oz
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          千と千尋の神隠しの密教
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            先日、千と千尋の神隠しについて触れたところ、ちょうど7月6日に放映されるという。きっと今回も多くの人々が見るだろう。ジブリの映画は現代の神話である。何度も放映されて深層意識に監督の世界観が刷り込まれていく。

            監督自身、無意識の世界からの感応を受けて、まるで宣託を受けるかのように制作しているようにみえる。宮崎監督は初めから結論ありきで映画作りをしない。自分自身でもわからないまま導かれるように作るのだ。無意識がキャッチした信号だから、本人が意図した内容を超える啓示もある。ポニョなんてまるで津波の予言だ。

            映画に込められている暗号は、作者本人でさえも自覚していないこともある。時代に影響を与える作品というものはそうした深さを持っている。無意識をキャッチできるのだから、宮崎監督はシャーマンでもある。

            さて、「千と千尋の神隠し」はどんな映画だろうか?世界の真理は堂々と現れているが、それに気がつかないものにとっては隠されているように見える。ここでは解釈のすべてを書く事はしない。あえて隠しておく。本当に求める者だけが、冒険をして得られることに価値がある。どんな神話も試練があるから盛り上がるのだ。

            いきなりだが、神によって隠されていることはなんだろうか?
            神とは誰だろうか?
            千尋は千という名前となり、本来の名前が隠される。我が国も、日本、にほん、にっぽん、ひのもと、やまと、一体本来の名前は何だろうか?

            名前を失う事は、自分を見失うことをほのめかしている。日本国民が本来の民族性を見失っていることを象徴している。本性が神隠しされている。原点や経緯といった歴史も隠され、奴隷となっているのだ。

            テーマも隠されている。意図的なテーマと、監督自身も自覚していない無意識なテーマ。優れた神話は多様な解釈ができるものである。この世の仕組みを表しているという解釈も一つの見方で、そうといえばそうだし、そうじゃないといえばそうじゃない。しかし、そう見た方が筋が通っていたり、より面白く見える。

            では、隠された名を取り戻すとはどういうことだろうか?

            名実ともに、本来の自己を取り戻す事だ。ギリシャ神殿に「汝自身を知れ」と書かれていたように、本来の自己を知るものは少ない。本来の自己は自分だけでは発見できず、愛をもって接してくれる他人のお陰で気がつくのだと映画は教えてくれる。千尋とハクの関係が良い例だ。そして、そこには見えない因縁があった。

            千尋がコハク川に落ちたことは、因縁付けしたと同じ事だ。因縁付けした相手に助けられ、因縁の相手だからこそ感情が入るのである。川に落ちて死にそうになった事は、一見悪い出来事と言えるだろう。でも実は逆で、悪いと思っていた事がかえって良かったわけだ。出来事の善悪は、長い目で見なければわからない。

            なぜハクも千も危険を冒してまで、相手を助けようとしたか?単純に愛だけでは計れない。千はハクのことを信じられるかどうかの試練もあった。敵だか味方だかわからない、意味が分からないことをしたりするのは因縁の証拠だ。

            神隠しは非日常の世界、異界への旅だ。非日常だからこそ、日常では気がつかない真理に気づけるのだ。昔は神が非日常に連れてってくれた。今は自然という神が都会からは隠れてしまった。一体誰が非日常へと誘ってくれるのか?非日常は怖いものだ。そうした怖さを都会はなくしてしまった。

            興味がある人がいるようであれば、この続きはまた次回に書こう。

            【2012.06.30 Saturday 11:36】 author : oz
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            潜在意識への刷り込み
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              沖縄にいると日本が奴隷状態である事が、目に見えてわかる。しかし、最近のニュースを見ていたら、沖縄にいなくともおかしい事に気がつくだろう。きちんと審議もされずに法案が通ったり、身内びいきが露骨に見えたり、やったもの勝ちの世界になっている。

              それと共に、AKBや携帯ゲームに象徴されるように資本主義も露骨になってきている。歴史を見ると、市場が発達をして経済が盛り上がったときに、モラルが崩壊していくのをどう抑えていくかが問われているとわかる。大体そういう時に宗教や政治の力で、経済の獣をコントロールしてきたのが、人類の歴史だ。

              欲望という獣は簡単には抑えられない。抑える方向ではなく、むしろ促進する方向でその力を利用して、勢力を拡大して来たのがユダヤ教とその子供のキリスト教である。資本主義の父はユダヤ教、母はキリスト教のようなものだ。

              話しは変わるが、日本は既に知らず知らずのうちに魂を売ってしまっている。その事自体に気がついていない。そうした日本のあり方を皮肉り、自らも魂を売って大成功した映画がある。

              その映画は、日本映画興行成績で圧倒的一位を記録した。ちなみに、2位3位も同じ監督で占めている。2001年に公開され、2300万人以上が映画館を訪れ、テレビで公開された時も紅白並みの視聴率を記録した。10年以上経ってもその記録は更新されないどころか、人口が減っている今となっては不動の一位だろう。海外でも評価された映画である。それも理由がある。

              そう、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」である。これほどまでに見られて、日本人の潜在意識に影響を与えている映画はない。この映画は、日本の象徴である八百万の神様が、ユダヤ人が経営する遊郭に通っている映画だ。監督自身は、神様は霊の象徴と言っている。

              10年以上前から今日の姿を予測し、だからこそ自らも錬金術を行い、壮大な呪術を人々にかけたのだ。その謎に多くの人が引き込まれ、解説本やネット上ではたくさんの解釈で満ちている。10年前より、より露骨になって来ている今だからこそ、この映画が示している内容を学ぶことができる。改めて見てみると、いろいろと発見があって面白い。

              世界の真理を知りたい方には、「千と千尋の神隠し」から学ぶ事は大きいとお勧めする。

              【2012.06.16 Saturday 23:44】 author : oz
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              「魔法少女まどか☆マギカ」にみる不変の法則の仕組み
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                「 魔法少女まどか☆マギカ」というアニメについて解説して欲しいという要望があったので、サラッと見てみた。なるほど、これは如来と菩薩のハタラキを説明するのに良い教材だ。

                ヒットするものには裏がある。そこには不変の法則が組み込まれている。その法則を知るのが如来だ。時代は変わり表現方法が変わったとしても、法則は時代を越える。そして、菩薩は如来からの信号を一つ受けたとすると、そこから何倍にも広げて意味を理解し、それを時代に適した表現にして伝えていく。如来と菩薩のタッグは最強だ。このコンビは確実に時代を創っていく。そうでなければ、ただ時代魂があって、たまたまその時だけヒットしたという一発屋になる。この製作者には如来がついているのか、はたまた時代魂なのか、菩薩なのかは、この先の結果でみえてくる。ここでは敢えて触れない。

                ちなみに、菩薩でも時代魂がないと、なかなか実践する場がなくて苦労する。だから真菩薩と呼ばれる菩薩の周りに菩薩が集まるのだ。そして、時代魂だけでもいずれ失墜する。そういう法則なのだ。

                アニメの世界に限らず、小説でも映画でも、登場する人物の精神的葛藤は、普通の人なら一生あるかないかのことが濃縮しておきる。普段なら有り得ないことを濃密に短時間に体験するから、物語は成り立つ。現実世界においても、それに近い体験ができるのが如来、菩薩である。以前、菩薩は生き様の強烈バージョンと書いたことだ。人より濃い体験をするからこそ、辛さも喜びも人一倍の苦悩と歓喜になる。大衆は大きな感情の波を求めている。命のエッセンスを欲している。精神が試される体験をしたいのだ。表面意識では嫌がりながらも、本当は濃い人生を望んでいるのだ。だからこうした作品にハマるのだ。

                本作品も法則通り。如来的要素を持つインキュベーターという知的生命体が解説して見せたように、時代を変えたり、創ってきたのは魔法少女、それはつまり菩薩だ。菩薩は表に出て働きかけるが、如来はあくまでも陰の存在だ。如来の働きは、大衆に知られることがない。たとえ知ったとしても、そんな話は大衆の常識外のことだから信じられない。例えば、インキュベーターのことをクラスメイトに話すようなものだ。

                インキュベーターは魔法少女たちに、よく状況を解説してくれていた。その視点は小さな因縁を超えた、不変の法則から見た視点だから、普通には理解しにくい。しかし真理とはそのようなものだ。小さい世界にハマっていると大きい世界から見た世界が理解できないのだ。

                魔法というと、対象物そのものを変えることを想像するが、本当の魔法は、視点を変えることだ。今までの概念から解き放たれるとするならば、魔法を解除したということだ。新たな概念を入魂することは魔法をかけるということだ。特別な世界の人間は、特別な世界の魔法にかかっているようなものなのだ。だから現実をみてしまうと、特別な魔法は解けてしまう。ジョイントは、普通の世界という魔法を解くことから始まるのだ。

                インキュベーター(如来)は、善悪を超えていた。そして、自分にできることに徹し、自分では直接社会と関わることができないことを知っているからこそ、菩薩(魔法少女)を必要としていた。如来と菩薩のタッグを組もうとする。お互いに必要なのだ。

                如来はときおり、変化を加速させる。それを表現しているのが、インキュベーターが仕掛けて、きょうこがさやかを救おうと行動したことだ。結果、きょうこ本人にとっては死を迎えることとなり、ほむらにしてもワルプルギスの夜という最終決戦での貴重な戦力を失った。危うく、まどかも魔法少女になるところだったが、間一髪で逃れている。この間一髪が肝だ。ギリギリのところで救われるようになっている。それを救ったのがほむら。これも意味がある。

                そしてここが大事なところだが、結果だけを見ると、誰も報われていない。しかし、その加速がなければ、危機に直面し進化することが遅くなっただろう。ほむらしか魔法少女がいないという状況が、まどかの内面の葛藤には必要だったし、そのままワルプルギスの夜を迎えていたら、きょうこの存在が少しだけ厄介だ。最後はほむらもきょうこも負けるにしても、その経過はまた違った意味となるし、加速しないときと比べたらクライマックスへの時間が余計にかかる。

                それぞれにとって、一番魂の学びがあるのは、あのタイミングで如来が加速させた時しかなかったのだ。が、しかしここで一つの法則を忘れてはならない。きょうこは菩薩の道をそれていた。まだ完全に外れてはいなかったが、輩(やから)に近かった。つまり、菩薩でないものが如来の信号を受けると、結果(成果)にならないという法則だ。だから誰も報われなかったのだ。しかし、如来のパワーはすごいから、今までのきょうこなら絶対にしないような、自己犠牲の賭けにでてしまったのだ。そうした決断をさせてしまうパワーが如来にはある。ありえないことが起きてしまうのだ。そしてそのパワーは伝播して、まどかをも巻き込んだ。第三者への波及効果もすごいのだ。しかし、菩薩を経ないで伝わった如来パワーは、一見すごいことが起きるが、結果は何も産まないことになる法則だ。

                逆に、菩薩が如来のパワーを受ければ、どんなことでも実現していく。それが最後のシーンで表されている。先を急ぎ過ぎた、少し話を戻そう。

                魔法少女が魔女になることは、天使が堕天使になることと同じだ。善意や正しさに拘るあまり執着が生まれ、ダークサイドに落ちていく。菩薩からテロリストへと変わるものは多い。以前、三島由紀夫のことを書いたが覚えているだろうか?その象徴が、さやかだ。このまま続けていたら、きょうこもそうなるところだった。そうなる前に今世を終わらせてあげたとも言える。如来の愛は深い。余計なカルマを積ませないために、きょうこの今世を終わらせてあげたともいえよう。普通の概念では理解できない世界だ。

                きょうこもさやかも最初は、人を救いたいという菩薩心でスタートした。それがやがて堕ちていく。ほんの些細なキッカケや試練から、自己欺瞞が始り、人の意見を聞き入れなくなり、独善へとなっていく。菩薩は光も闇も、極端な形としてわかりやすく見せるのが仕事だ。いろんな菩薩がいる。きょうこたちのように、本人が自覚していない場合も多々ある。

                菩薩の道は簡単ではない。魔法少女(菩薩)として普通ではできない体験もできる一方で、常に死と隣り合わせでリスクも高い。死ぬかもしれないという恐怖を常に抱えていたお陰で謙虚に菩薩として歩んでいたが、ほんの些細な油断で死んでしまったマミ。いくら今まで頑張ってやってきたからといって、容赦はない。仲間が増えるというチャンスこそピンチだったのだ。嬉しい時こそ、気を引き締めなければならない。またマミは、選択の余地がなく菩薩の修行をさせられていた。そういう人生もある。

                このアニメの世界においては、まどかによる暁見ほむらへの因縁付けがなければ、この結末は迎えなかった。その因縁を受けてほむらが、時間を戻して何度もまどかを救おうとした。逆にほむらがまどかに因縁付けをすればするほど、まどかの魔法少女としてのポテンシャルは高まった。まどかが大天使だとすると、ほむらはサタンとしての役を引き受け、寂しさや切なさを受け入れて孤独に戦っていた。この二人だけは、世界が変わったとしてもお互いを覚えている。特別な関係だ。それはなぜか?あとで触れよう。

                話はそれるが、暁見ほむらの名前が面白い。暁は、あかつきといい、夜明け前を示している。暁の明星といえば、金星である。金星はビーナスともルシファーとも呼ばれている。マニアック過ぎた。興味ある人は調べてみたらいい。

                最後の最後まで、まどかは特別な力があるわけではない普通の子であった。時間が戻る前は魔法少女として頑張っていたとはいえ、どちらかというと暁見ほむらのほうが修行してるように見える。しかし最後、まどかは菩薩から如来へと進化する。その答えは、ほむらにある。ほむらがセッセとまどかの為に働いて、助けていたのには訳がある。それは、空海の言う不二の思想だ。元々、まどかとほむらは、ひとつの魂なのだ。敢えて分離して、違う体験を別々の人格として積んでいた。元々同じ魂だからこそ、あれだけ信じられ、特別な関係になれたのだ。表層意識を見ただけでは捉えきれない秘密がある。究極は自作自演なのだ。本人すらも忘れてしまう自作自演が最強だ。


                ここからは余談だが、このアニメは萌え絵なので普通の方には抵抗があるだろう。この萌えという言葉は時代を象徴していた。そしてその「萌え」と同じ音の名前を持つ、私の妻の「もえ」は確実に時代魂だ。萌え要素としては欠かせない天然ボケもあった。今後が楽しみだ。

                そして、萌えの聖地の秋葉原を拠点としてブレイクしたAKB48。面白いことを教えよう。私の結婚式の撮影の仕切りをしてくれていたのが、今のAKBの社長だ。当時は自分でも撮ってくれていたが、写真関係の社長でまだAKBがスタートする前だ。こうした不思議な繋がりが時代魂の特徴でもある。だから時代の裏側を知ることができるのだ。



                【2011.05.11 Wednesday 23:11】 author : oz
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                「悪霊喰 The Sin Eater」3
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                  今日はアレックスの相棒である、トーマスの話から始めよう。

                  トーマスは最初の登場シーンから悪魔払いしていた。そこで、「闇の教皇が光臨する」との信号を得る。トーマスは既に何かを察知し動いていたわけである。そこにアレックスからの電話という信号を得るのだが、その電話は途中で切れる。トーマスが切ったのか?切れてしまったのか?興味深い。そして、いくら悪魔払いとはいえ、相手は車に突っ込み死んでしまうのだ。トーマスの行為は善なのか?悪なのか?簡単には評価できない。

                  場面は変わって、アレックスとトーマス、マーラで話していたとき、罪喰いの方法について書かれた羊皮紙をみて、
                  「同じものをみた覚えが」とトーマスはいう。その続きは、闇の権力者であるシラクのもとにあったわけだが、シラクとのつながりが既にあったのはトーマスで、闇の世界とアレックスは繋がっていなかった。トーマスの導きによって、展開が開けていく。しかも、闇の権力者に、アレックスを連れて会いに行った時、
                  「借りを返せ」とトーマス。一体闇の権力者にある貸しとは何であろうか?かなり関係が深いことが伺える。

                  にも関わらず、闇の権力者の正体をトーマスは知らなかったし、3人で話している時に、初めて枢機卿が訪れてきた際、枢機卿はトーマスと初対面のふりをした。徹底している。このことについて、以前「肩書きの限界」という記事を書いた。これを参照して欲しい。

                  前回、我々もあえて伝えないことがあると書いた。このことと似ているのではないかと思う人もいるだろう。実際、天使のやり方も悪魔のやり方も、表面だけを見れば似ていることがある。違いは、何のためにそのやり方を使うか、だけだ。エゴの為か、相手の為か。自分がやりやすいようにか、相手にとって価値ある体験にするようにか。

                  方法が似ているからこそ、堕天使に落ちやすいのだ。特別なやり方は実際力がある。ゆえに勘違いを起こし欺瞞になれば、気付かぬ内に、自分は正しいことをしていると堕ちてしまう。だから自己欺瞞は恐ろしい。

                  トーマスは、闇の権力者であるシラクに会うためにアレックスを地下室へと案内する。「コンスタンティン」にも似たような場所がでてきたのを覚えているだろうか?そう、パパミッドナイトのクラブである。どちらも地下だ。そして、我々の世界でこうした場所はどこかといえば、西麻布Birthである。勿論ここも地下にある。最近起こった事件も西麻布。西麻布は、東京の中でも特異な場所にある。もう一つ符合する信号もあるのだが、今はまだ触れないでおこう。

                  地下に入ったトーマスがまず探したのが、ロザリンダ、うつろめの女だ。彼女がまた面白い存在だ。男か女かわからないような風貌をして、謎な存在。しかし彼女を通さなければ、シラクには会えない。目利きである。霊を見ているからうつろにみえる。ただの案内人でもない。最後のほうで、シラクの椅子に座っているのがみえる。

                  ちなみに、役を離れた彼女は実は絵描きだという。この映画に出てくる絵は全部彼女の作品で、マーラが手でひまわりを書いていたやり方も、彼女独自の描き方なのだ。
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                  【2010.12.06 Monday 17:00】 author : oz
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                  「悪霊喰 The Sin Eater」2
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                    Sin Earterはアレックスたちのカロリング修道会を破門された人間が元々始めたことだった。因縁の関係だ。仕組んだのか、仕組まれたのか?映画においても、枢機卿がイーデンを利用しているのか、はたまたイーデンに利用されているのか、その真実はわからない。利用していようが、利用されていようが本来は関係のないことだ。そこに答えはない。

                    そこにハマりすぎると魔界に入って、ドミニクのようになってしまう。知りたい欲求を抑えられず、魂を売ってしまう。そこまでいかなくとも、知りたい気持から疑心暗鬼も生まれやすい。なぜすべてを教えてくれないのか?と。

                    私も昔は、ITを活用することで、どんな情報も共有することが無条件に良いことだと信じていた。しかし今は、何でも無差別に情報や物資・資金を提供することは、本人にとって学びとならないこともわかった。

                    我々の世界では、あえて全てを伝えないことが多々ある。そのせいで、仲間であるのにその気持ちを疑ったり、騙されているのではないか?と疑いの心が起きやすい。でもだからこそ、その人の本質が現れやすいのだ。隙がなければ、人は本心を隠したままだ。それではお互いに表面の付き合いとなり、魂の学びがない。喧嘩や疑いは起きたほうがいいのだ。それも魂の向上のキッカケとなる。我々はあえて相手が攻撃しやすい隙を作ることもする。だから誤解されやすい。それが菩薩の道なのである。

                    「知識は信仰の敵だ」と本屋の主人が言った。信仰は信頼・愛と言い換えてもいい。すべてを教えることが信頼へと繋がるわけではないのだ。しかし、求める者はその人に応じて知ることになる。それが物足りないからと言って疑うようであれば、それは信じていないということだ。ここまで知ったから、ここまでは信じようでは取引だ。条件付きの信頼は本当の信頼ではない。真理をいえば、何も分からなくても信じるのが本当の愛だ。

                    更に本屋の主人は、
                    「奈落を覗き込むと、奈落と目が合うよ」とも言った。彼は「奈落の底」とは言わないのは何故だろうか?その意味をよく考えてみてほしい。奈落とは何か?不安、恐れ、疑い、闇の知識、これらは人が信じられなくなり、自分すらも信じられなくなる。これらの力は下に引っ張る引力のようなものだ。浮き上がる力と落ちる力、どちらが強いか?地上に住んでいる我々はよくわかるだろう。

                    アレックスが入った不思議な本屋はヴァチカンの周囲に実際いくつかある。どうやって生計を立てているのか?そんなにお客がいるとも思えない。謎ではないか?入った瞬間に、異端のカロリング修道会の名前を出すくらいだ。来店する人は限られている。偶然入った人間は、裏の世界である地下の書庫へと案内されることはない。

                    我々の世界でこの本屋の存在を例えるならば、それは猫寺だ。表の入り口から入った人間は、そこにあるアートや場所の意味を知ることはない。繋がり、縁がある人間だけが裏の入り口から入れる。猫寺は完全予約制で、普通の飲食店として考えたら赤字確実で三日と持たないやり方をしている。猫寺の存在意義を理解し、必要としている人間の支援があるから存在していけるのだ。裏のつながりがなければ維持できないのは、映画の中の本屋も同じである。

                    この本屋の店主も只者ではない。初対面だとしても、アレックスを地下へ案内する資質を備えた者であると、一目で判断し導いている。また、すべてを見せるわけでもない。意味深い言葉を伝えながら、今のタイミングで見せて良いものだけしか見せない。

                    「君の値打ちは?
                    知らぬ方がいいこともある」
                    といいながら、アレックスが見ていた本を閉じる。 自分の役割、持ち場をしっかりと理解している。またアレックスも無理やり見ようともしない。どんな人間にも値打ちはある。その持ち場に応じて。それがその人の使命であり役割なのだ。

                    このシーンの時、本屋の主人とアレックス、どちらが偉いとか優れているとか判断できるだろうか?そんなものはないのだ。この状況では、店主とアレックス、二人がいないとシーンが成り立たない。二人とも必要だし、またこのシーンだけでも映画は成り立たない。前後のシーンと他の登場人物がいて初めて成り立つのだ。繋がりによって世界は成り立っている。自分の値打ちや役割が今はわからないとしても、必ず登場シーンはあるし、必要な役割がどんな人間にもあるのだ。

                    そして本屋の地下通路。線が引かれていて、その線を越えないようにと店主は警告する。線を超えてしまうと、犬が襲ってくる。前回書いた、イーデンの兄が破門された話を思い出してほしい。歩いて良い道、これはつまり戒律に守られた道だ。それを踏み外すと痛い目にあうのだ。アレックスは道を外れるが間一髪で助かっている。世の中不公平なのである(笑)

                    これは差別でもないし、区別でもない。その人の値打ちや役割は、その責任を全うするかどうかで決まる。例えば、本屋の主人と言う役割を貰ったとしたら、それを極めることができるかどうかなのだ。極めてしまえば、もう主人公なのだ。すると彼を主人公にした、「世界の秘密を握る本屋」という興味深い映画になる。

                    我々の世界では、誰もが自分の映画の主役になって欲しいとチャンスを作っている。自分を知り、自分をプロデュースしてくれる仲間がいて、その導きを信じて、新しい自分を創造すると自然と主役になっている。

                    主役になるには、今までの自分が持っている概念を捨てて、新しい概念を信じて実践することが要求される。今の自分は人生の主役ではないのだ。世間に合わせた自分像を演じているのだが、それに気付いていないだけ。

                    プロデューサーに、本屋の地下で、
                    「この道を踏み外さないように歩いてみて」と言われた時、理由がわからなくてもそれが信じられるか?そして実際に歩けるかがすべてだ。

                    自分は自由に歩きたいとか、自分勝手な役柄を気分に応じて演じていたら、一体何の映画なのか意味不明の映画になるだろう。今まで自分が演じていた映画から、新しい映画の主役の演技を掴むまでは、監督やプロデューサーの指導を聞くのが当然だろう。そうして初めて役に成りきれるのだ。



                    話を戻そう。ドミニクがこの本屋で最後に買ったのは、アラム語で書かれた羊皮紙。羊皮紙も信号だ。羊の皮と言えば、羊の皮をかぶったオオカミという表現が有名だ。これについて面白い話がある。

                    ある羊の皮をかぶったオオカミが悔い改めることを決意し、そのために儀式をすることを望んだ。神父もそれを大層喜び、大事なことだからと念には念を入れて準備をして、儀式を行った。羊の皮をかぶったオオカミ本人も望んだことで、本当に悔い改めようとしていた。

                    神父は一生懸命やり過ぎて、いつもよりも長く時間がかかってしまった。そのせいで、羊の皮をかぶったオオカミは退屈してしまった。その時、神父が力を入れ過ぎて怪我をし、少々血を流してしまったのだ。その血を見た瞬間、羊の皮をかぶったオオカミの血が騒ぎ出し大変なことが起きた。

                    血が騒いでしまっては、自分ではもうどうにも抑えられなかったのだ。羊の皮をかぶったオオカミは、神父を殺してしまった。どうしようもない性(さが)というものがある。これは一体誰が悪いのか?熱心にしすぎた神父のせいか?血が騒いでしまった羊の皮をかぶったオオカミのせいか?答えは簡単に言えないのがわかるだろう。良い悪いではない世界があるのだ。そうした寓話を含んだ羊皮紙に、悪霊喰のことが書かれているのだ。

                    書きたいことが山ほどある。質問があればコメント頂ければ幸いだ。
                    続きは次回!

                    【2010.11.30 Tuesday 16:11】 author : oz
                    | 映画 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
                    「悪霊喰 The Sin Eater」
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                      「悪霊喰 The Sin Eater」

                      賢者風の容貌をしたドミニクから物語は始まる。ドミニクはどんな人間だったか?

                      ドミニクは知識を追い求め、自分のためにアレックスを裏切ってしまう。教会からは破門され、異端とされるカロリング修道会に所属していた。ドミニクが死んだあとは、アレックスとトーマスしかいない小さな会。にも関わらず、アレックスはNYという大都会で堂々と司祭として活躍し、トーマスも簡単ではない悪霊払いを日常のように行っている。つまり二人ともかなり優秀な人間なのである。器があるということだ。

                      我々も異端の小さな会みたいなものだ。だからこそ本物が集まる。普通にしていればメインストリームを歩ける人間も、あえて求めて異端に居るのである。アレックスたちもそうである。真実は裏に隠されており、裏が中心で動いている。罪喰いも彼らと同じ異端の出身である。

                      ドミニクが死んだとき、アレックスのもとへわざわざドリスコル枢機卿が訪れている。次の法王と呼ばれる人間があえて訪れることの意味。またアレックスもそれほど驚いていない。普段からただの司祭では会えないような、それなりの人間に接しているからだ。そのアレックスは「見かけは若いが、魂は古い」と言われる。これはアレックスを演じたヒースレジャーもそうだった。

                      アレックスが悪魔払いをした女性マーラ。悪魔払い中にアレックスを傷つけてしまい精神病院に入院中であったが、アレックスの身に「死よりも悪いこと」が起こる予感がし、彼を助けようと病院を抜け出してきた。

                      彼女は因縁だろうか?トーマスはアレックスに散々警告した。最後は、
                      「名前を変えて一緒に逃げろ」と。トーマスのほうが世界がよく見えているのだ。マーラはアレックスを助けたかった。彼女は天使だった。しかし、天使では力が弱く、結局はより大きな力を持つものに利用されてしまう。アレックスとマーラは元々因縁ではない。マーラの悪魔払いをすることによって因縁付けとなったのだ。映画「コンスタンティン」でのイザベラとマーラは似ている。どちらも主人公にとって重要なキッカケを作り、自殺という大罪を犯している。それにも関わらず、どちらも最後は救われた。

                      アレックスが最後の秘跡をマーラに行った際、罪を食べたが、それは少なかった。逆に言えば、アレックスが悪魔払いをしても全部は取りきれなかったということだ。罪喰いが悪魔払いの上を行く証拠だ。

                      アレックスの人生を操り、因縁付けまで計画して行った罪喰いSin Eaterであるイーデンは何者だろうか?コンスタンティンでいえば、ルシファーのようにも見えるが、実はガブリエルである。ガブリエルはマモンを解き放とうとしてロンギヌスの槍を使おうとした。イーデンを殺すことのできる道具は何だったか?あれも槍なのだ。その槍を、イーデンは酔っぱらった際に紛失した。ちなみに一緒に飲んでいた相手は画家のカラヴァッジオ。イーデンの兄は建築の設計士だった。教会の建物に絵画、彫刻は欠かせない。アーティストにとってヴァチカンはお得意先だ。その後槍はヴァチカンに保管される。教会の策略である。

                      どんなに隙がないように見えても、イーデンの槍にあたるような弱点は必ず用意されている。我々はその人間にとっての槍が何なのか?の仮説を立てる。その視点を持つだけで実際槍を使わなくても意味が出てくるのだ。

                      「悪霊喰」では槍をトーマスが最後は持ち去り、「コンスタンティン」ではアンジェラに託される。コンスタンティンはその際興味深いことを言っている。
                      「ルールだ。隠すんだ」と。そして槍は何処かへと隠される。

                      普通に考えたら、それ使えばいいじゃんとなるが、特別な世界にも特別なルールがあるのだ。それが分らなければ、特別な世界で登場人物にはなれない。

                      ルールと言えば、ヴァチカンの表の世界では厳格すぎるほどにルールが守られている。そのせいで、ドミニクは破門された。イーデンの兄も教会から破門されていた。イーデンがSin Eaterになるキッカケとなったのも、因縁の兄の事故で最後の秘跡を受けられなかったからだ。それでSin Eaterが呼ばれた。

                      「神の家を建てさせておいて、神の家には入れないのか!」
                      普通は入れてやれよと思うのが人情だろう。では何故許されないのか?
                      イーデンの兄は何をしたか覚えているだろうか?

                      エジプトで神殿作りをしていたとき、瀕死のアラブ人に、本来は与えてはいけない聖水を与えたことで破門された。その場に聖水しか水は無く、死に行く者に最後の水をと情けをかけたのだが、そういった事情でも許されないほど厳格なのだ。それくらい厳しい世界なのである。勝手な判断で、世界の仕組みを理解していない人間が、何かをしてしまうと取り返しがつかないことがあるのだ。厳しくすることは、半端な行為による悪影響から守ろうとする愛でもあるのだ。ちなみに、兄の名はフィリップ。そう、「フィリップ、きみを愛してる」と同じだ。

                      アレックスは、教会の掟を破り、夜中にこっそりとドミニクを埋葬する。そのとき、二人のシスターが手伝っていたのを覚えているだろうか?彼女たちも天使で、二人は両翼の羽を象徴しているのだ。

                      そのシスターが去り、登場したのは子供の姿をした悪霊。ドミニクの家の前に居た二人の子供だ。子供の姿に化けられるのはかなり高位の悪霊だ。考えてみてほしい、子供に対しては人は無防備ではないだろうか?子供が仕掛けてきたら、あっという間に騙されてしまう。

                      その強力な悪霊に対して、アレックスはやられそうになる。しかし、ここでトーマスが登場だ。映画では、アレックスが悪魔を追い払った後、登場しているが、実はこれはトーマスが悪霊を払ったのである。映画の画面をよく見てほしい。後ろの方にトーマスが歩いているのが見える。悪霊払いの能力はアレックスよりトーマスの方が上なのだ。

                      映画では、悪霊が登場する前に天使は去っている。教会の掟を破って、有力な派閥でもない異端の会を支援するのは簡単ではない。それでも協力したシスターたち天使は、なぜ最後まで埋葬を手伝わずに去るのか?これは持ち場の厳守を表現している。

                      彼女たちは己の器と持ち場を理解しているからこそ、ここまでしか出来ないことを痛いほど理解しているのだ。情で考えたら、最後まで埋葬してあげたいのが人情だ。しかしそこまでしていたら、悪霊の登場に出くわしてしまい大変なことになっただろう。

                      コンスタンティンのチャズを思い出してほしい。
                      自分の器を知らず向かった結果どうなったか?
                      一瞬で消されてしまった。

                      我々の世界でも似たようなことがつい最近あった。
                      天使も自己欺瞞に陥ったらやられてしまう。悪霊のほうがパワーあるのだ。

                      長くなったので続きは次回に。


                      【2010.11.24 Wednesday 12:12】 author : oz
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