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中途半端になってないか? |
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![]() 特に忙しくしていると、自分でも気が付かないうちに、モノゴトに振り回されてしまう。すると、モノゴトを徹底的に出来なくなってくる。気を抜いたり手を抜いたり、「まぁいいか」と妥協し始めてしまう。その結果、本当に大事なことよりも瑣末的なことに時間を取られることになる。 そしてその言い訳に、「前とは今は状況が違うから」と、ただ自分がラクしたいがために自分を偽ってしまう。折角、今まで徹底していたとしても、緩んでしまえば一瞬で終わってしまうのが、この世の厳しさだ。ほんの一瞬の気の緩みがすべてを無にしてしまうことなどザラにある。 勝って兜の緒を締めよと、言うは易く行うは難しだ。いい時ほど、チャンスの時ほどピンチが潜んでいる。落とし穴はすぐそこにあるものだ。かといって、慎重にし過ぎたらチャンスを逃すことにもなる。だから人生は面白い。 以前、「徹底の先に愛がある」と書いた。徹底すべきことは、その時によって違う。今は何を徹底すべきだろうか?その意識がなければ、同じ事を繰り返すことしかできない。状況が変わっても、まるで時代遅れのロボットのように同じことをしていては、誰にも相手にされなくなる。 同じ事を繰り返している人ほど、そこにハマっていて自分の人生が無駄に過ぎていることに気が付かない。人生が危ない人ほど無頓着だ。この世は面白い。必死にならなければ先がない人ほど必死ではなくて、余裕があって必死じゃなくてもいい人ほど必死なのだ。一見矛盾に見える。 持てるもののほうがそれを失う恐れを持ち、変わりたくないがゆえに必死になる。持たざるものは失う恐れがないゆえに、持つことで変わることを恐れている。表面上はまるっきり正反対の違うように見えて、本質は同じ恐怖から行動が出ている。恐怖からは救われない理由だ。 突き詰めてみれば、光を求めていないから真剣じゃないわけで、そこに矛盾はない。人間は慣れの生き物だ。どんな環境にいたとしても慣れてしまう。同じじゃないのに同じように見えてくる。意識を高く持ち続けるのは一人では難しい。まして普通の世界は、足を引っ張り合う人間で満ちている。悪口を言い、他人のあら探しばかりしている環境では、心も折れてしまう。ムリもないことだ。 どんなに人を信じようとしても、その千倍もの力で周囲が足を引っ張り信じられなくさせてしまうのだ。周囲の人間は自分が人を信じられないから、他人が信じていると「馬鹿だ」とか「騙されている」としか見えないのだ。自分の見た世界が反映される。人を信じない人間は、信じられない人間で世界が満ちているように見えて、自分が信じられないのはあなたのせいだと人のせいにし続ける。 この世を地獄にして生きている人のなんと多いことか。ほんの些細な徹底から世界は変わってくる。光が見えないのであれば、何か徹底違いをしているのだ。我を張っているのか、受け入れていないのか、素直になれないのか、下を見ているのか、理由は様々だろう。 迷った時、信じられない時、弱い時ほど、光を感じた時のことを思い出すのだ。その時の気持ちを徹底できれば道は自然と開き出す。そして、その道の先には、あなたが道を歩いてくるのを待っている人が必ずいる。その時、英雄(あなた)は試練の旅から帰還するのだ。 |
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