旧 日々、菩薩の道
 
わかるとわからないの間
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    貴重な体験であった昨年の出来事から1年が経ち、喪が明けたかのように展開が促進している。あの事件があったからこそ出来ていることがたくさんある。失ったように見えたのは表面だけで、裏面では得たものが大きい。ただのゴシップにしては意味がないために、真相などは表に今のところ書かない。直接関わる人だけがわかればいいことであるが、意味があれば書くこともあるだろう。

    秘密というものは、秘密だからいいのであって、公開されてしまえば判断されてしまう。人は理解したがり、わかった気になりたいのだ。本当のことを知りたいのも、ただ好奇心だけであって、そこから真理を掴みたいなどとは思ってもいない。知っても何も生み出せない。

    知ってしまったものには人は興味を抱かない。人間底が知れたらオシマイだ。この人はこういう人物だとレッテルを張られた瞬間に興味がなくなる。分かってしまったら見くびられるのだ。かといって、わからなすぎても、認められない。

    わかるようなわからないような、微妙なニュアンスが絶妙。人でもモノゴトでも、わかったような、わからないような、はっきりと言えない状態が最高だ。それは普通の人にはストレスになるのだが、ストレスがないからいいとは限らない。

    例えば、お金持ちを考えてみよう。長者番付とか上場とかしてると、資産が見えているのでランクをつけられる。ランクが付いていたら間違いないものとしてわかりやすい。しかし、見えてわかっているということは、形になっているということだ。形になっていたら動かしづらい。

    見えない資産のほうが、いくらでも動かせるし、資本主義のルールではお金のスピードをあげれば上がるほど儲かるわけだ。表に出てこない人のほうが資産を持っているのは当たり前なのだ。でもそうした人の存在はわからない。わからないから、ないものと同じになる。

    真面目脳であれば、自分の資産は自分の名義で持っていると思い込む。しかし、西武の名義株の件を見たらわかるだろう。資産を人の名義で管理している人はたくさんいる。錬金術の一つでもある。

    陰謀論も「陰謀論だね」とレッテルを張った途端に、その情報が生み出す意味をとらえることは出来なくなる。どんな情報にもレッテルを張ることなく、捉えることが出来る人間が、人を動かせる。

    視点が上がらない限り、目先の出来事に操られてしまう。一喜一憂して、一生操り人形のままだ。かといって、すべてを疑っていてはキリがない。自分が違和感を感じるものを追及するのがいいが、違和感を磨く方法を大半は知らない。

    意図的にわからないようにしようとやりすぎても輩になってしまう。そこに筋とか柱といった、信念がなければ隠し事もつけが回ってくる。考えすぎてわからなくなるかもしれない。それは人のためなのか?自分のためなのか?悩んだ末に決めて、決めたらやり抜くしかない。

    ニュースを聞いて違和感を感じるだろうか?
    なぜ、6月6日に66歳で三笠宮はなくなったのか?
    なぜ、急に原発再稼働を言い出したのか?
    他にもなぜ、なぜと言い出せばキリがないが、物事をそのまま捉えていては、その裏に隠されている真意に気が付くことはできない。知りたければ、伝える人はいる。それを望むかどうかだけで道は開ける。

    裏があろうとなかろうと、どんなモノゴトにも捉われずに受け取ることで、柔軟な思考がうまれる。何があってもおかしくない時代なのだから、変化に対応するにはわかった気にならないことが一番だ。

    【2012.06.09 Saturday 13:54】 author : oz
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    マーロンブランドの人生に学ぶ
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       事実は小説より奇なりという。現実の世界のほうがはるかに面白いから、ハリウッドも現実に起きたことからネタを拾っている。実話ほど実話とは思えない波乱万丈に満ちているのだ。しかし、それは一部の吹っ切った人が起こしているのも事実だ。大衆には触れることがない世界。だから映画でそれを味わって非日常を体験する。

      小説より面白い現実を生きている人の日常は、普通の人にとっては非日常だ。どちらがいいとか悪いとかいう話ではない。普通の人がやらないことをする人は、その人にとって譲れない信念がある。それがモチベーションとなり、常識という殻を破る力になる。そういう人間は近くにいたら、強烈な個性のために、熱狂するか不愉快になるだろう。

      織田信長も、今となっては英雄だが、当時の同世代人にとっては第六天魔王と恐れられた。それはそうだ。比叡山を焼き討ちしたり、今でいう大量虐殺者なのだから、神をも恐れぬ所業に度肝を抜かれただろう。近くにいたら迷惑だが、時代が下がって、遠くなると格好いいとなる。

      世間に自分を合わせようとするのではなく、自分に世間を合わせようとする。いまの世界はおかしい。そんな世界は納得いかないと欲する人間が時代を創る。またそういう人間がスターになる。ハリウッドスターのなかで、飛び切り反骨心があったマーロンブランドの人生は格好いい。

      今だから格好いいといえるが、それが確立するまではダメな人とか落ち目だとか言われてきた。真面目脳であると、一つ一つ評価を積み重ねていかないとダメで、一回でも落とされてしまったらもうダメだと考えてしまう。本当は、ダメなところがないと逆に面白くないことに気が付かない。紆余曲折があるからドラマになるのだ。

      世間とは面白いもので、突き抜けて看板ができてしまうと、どんな失態も逆に物語の一部になってしまう。「ああ、やっぱり彼らしい」といった具合に。それが魅力となる。

      何も汚点がないというのは、何も利点がないというのと同じだ。
      「いい人、いい人、どうでもいい人」なのだ。世間では、何も問題がなく素晴らしいように見える人もいるだろう。それは汚点が見えていないか、もしくは作られた人物である。世間を誘導するためには、カリスマを作ることが有効だからだ。

      作られたカリスマではない、本物のカリスマにしても、その魂に火をつける人がいなければスターも生まれない。人は人に影響されて変わっていく。マイケルジャクソンは、マーロンブランドをファーザー、エリザベステーラーをマザーと呼び、慕っていた。魂の親子だ。

      ファーザーと呼ばれたマーロンブランドの人生は興味深い。自分たちの世代では、ゴッドファーザーのイメージが強いが、彼がT-シャツやジーパン、革ジャン、バイクといったアメリカ文化を創り出したのだ。ジェームスディーンもプレスリーもビートルズも、とにかくすべての人がマーロンブランドに多大な影響を受けた。それくらいのスターだった。

      彼は幼いころから反骨心があって、当時は黒人差別が当然の時代に、平気で一緒に遊んでいて、教師ににらまれたりしていた。その性格はずっと続き、数度の結婚で選んだ奥さんも有色人種だった。

      ジェームスディーンの出世作も、元はマーロンブランドが出演するはずだった。彼がお世話になってきた監督だったが、納得できないことがあって蹴ったために、ジェームスディーンのチャンスへと繋がった。信念を通せば、世界はうまく回るようになっている。蹴った理由も、彼が仲間を売ったからというのだからシビレル。

      父親はどうしようもない人だったが、金に困った父のためにと、それまでは厳選して出演作を選んでいたのだが、役を選ばず出演して評価を落とした。因縁の作用だ。因縁は足を引っ張る仕事をする。それに負けていたら大スターではなく、ただのスターで終わっていた。

      ゴッドファーザーの企画を知ったとき、制作側からは落ち目だと嫌われていたが、自分しかその役はいないと、歯を抜いたり役作りをして、オーディションにまで出て見事役を射止めた。ゴッドファーザーで一気にスターダムに復帰するが、マーロンブランドらしいのが同時に出演した映画ラストタンゴ・イン・パリがポルノ映画と酷評されたことだ。共演した女優の人生もこの映画に出演してからめちゃくちゃになり、いったいなぜあんな駄作を作ったのだと謎を振りまいた。ゴッドファーザーで期待が高まり、注目が集まっている時期に、あえて自ら貶めるかのように。同時代に理解されるのを拒むようでもある。

      ちなみに、ゴッドファーザーで、無名だったアルパチーノがスターになり、アカデミー賞も得た。しかし、ハリウッドはアメリカ先住民への人種差別があると、マーロンブランドは受賞拒否した。アカデミー賞を欲しがる人はいても、人種差別を理由に拒否する人は彼しかいない。恰好いいではないか。そのせいもあって、それ以降は西部劇はあまり制作されなくなった。

      マーロンブランドは、自分だけの王国を作ろうと無人島を購入していた。理想の場所を作るためには金がいくらあっても足りない。そのための役者の仕事だと割り切って、一本でいくらお金を稼げるかに挑戦していった。ゴッドファーザーが当たったために、次回作もとお願いに行くも高額すぎて断念。わずかばかりの使用でも高額すぎて、脚本を大幅に変更せざるを得なかった。

      彼が出演したスーパーマンでは、世界一ギャラの高い俳優としてギネス記録を残した。しかも、出演時間もわずかしかない。出来るだけ少ない時間で高額収入を目指したのだ。そうした金を自らの王国のために注ぎ込んだ。ハリウッドは、そうした信念ある人間たちがいるから魅力がある。もはや、彼の人生が一本の映画だ。彼の心にあったものが彼を形作った。

      あなたの心がつくる映画はどんなであろうか?


      【2012.06.01 Friday 11:06】 author : oz
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      真の悪党とは
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         綺麗ごとの世界を成り立たせたいのなら、どこかが悪を引き受けなければならない。悪を必要以上につぶして回ると、結局は自らのもとにそのつけは回ってくる。誰かしら汚れる役目が必要なのだ。正義のヒーローが成り立つには、悪役がいなければ始まらない。そのバランスが大事なことは、生態系という自然の教師に学べることだ。

        衛生状態を気にしすぎて無菌にこだわり続ければ、免疫がなくなり結果として病気になってしまう。多少のばい菌は必要なのだ。また、消毒しすぎて、その消毒が効かなくなり、更に強い毒性を持つ場合だってある。過ぎたるは及ばざるがごとしの言葉通りだ。さらに言えば、細菌がいなければ、細菌がつないでいた連鎖の輪がなくなることになり、全体が崩壊してしまう。

        その他にも、ブレーキだって遊びが必要なように、無意味と思われる余白が社会には必要だ。無意味だからそんなものはなくてもいいと切り捨てていけばいくほど、社会の余裕はなくなり、ぎすぎすしたものとなっていく。効率化だけを求める社会はそうなるしかない。

        ITによって加速された経済が、多数から少数へと富を移転する動きをしている。絆を利益に変えてきた。そして、深く考えもせずにスピード優先で企業活動を邁進していると、回りまわって自分の首を絞めることになる。利益の極大化を推し進めるならば、スピードこそ命だ。だが、肉食動物だけでは生態系が成り立たないのは明白だ。草食動物が育つには時間がかかる。それを無視して、スピードを追い続ければ、すべてを刈りつくして自らのエサもなくなる。

        世界を人と例えるならば、癌細胞は際限のない拡大を目指している会社だといえよう。しかし、成長期であれば、一見際限のない拡大をしていると同じように見える。正常な細胞なのか、癌細胞なのか、自分では判断つかないものだ。気付けばミイラ取りがミイラになるようなものだ。

        悪党というものは、既存の秩序を脅かす存在だ。だからこそ叩かれやすい。しかし、その性格ゆえに、新しい秩序を作り出す芽が眠っている。実体世界からすれば、ITや金融、革命家などは悪党に見える。この悪党がそのまま秩序を崩壊させたとしたら、どんな秩序が待っているのか?それは今よりも幸福なのだろうか?次の世界をイメージできていないと、自分の行為が地獄への高速道路を作っていることになるかもしれないのだ。

        そしてITによって加速された金融こそが、世界の秩序を破壊しつつある。その先には、持つものと、持たない者の二極化された世界だけが残って、持たない者は諦めと一瞬の楽しみだけを追い求める人生となる恐れがある。夢も希望もない社会だ。

        夢や希望は、バーチャルの中にしかない世界ともいえる。ある意味完成された世界だ。しかし、そこにはドラマがなく、自分が主人公にはなれない世界だ。この病に対するワクチンは、悪党の中にあるのだ。ただの悪党で秩序を破壊するだけなのか?それとも、新しい秩序を創造する英雄になるのか?真の悪党とは、悪党に見えて実は正義の味方だったというのが面白いドラマではないだろうか。


        【2012.05.11 Friday 11:00】 author : oz
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        歴史の創造
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           鳩山元首相がまた面白い動きをしてくれている。馬鹿だ馬鹿だと言われているが、バカにしか世の中は変えられないのもまた事実である。細かい発言などは時の流れにおいては忘れ去られていき、印象的なことだけが残っていくから、案外100年後には鳩山さんは歴史に名を残している可能性がある。アメリカ追従の鎖をはじめに解こうとした人物といわれるかもしれないのだ。

          評価や意味は時代によって変化する。私はキリスト教の学校で学んだが、キリストの生誕時に登場する東方三博士(マギ)が、ゾロアスター教の祭司だったとは習わなかった。祭司の名称であるマギから、魔法(マジック)などの言葉がうまれてきた。エヴァンゲリオンにもマギというコンピューターがでてくる。魔法少女まどか☆マギカのマギカも、同じ由来だ。

          祭司が魔法使いになり、聖なるものから魔なるものへと変貌していった。歴史は公平でも事実でもない。偏(かたよ)った世界観でストーリーをつづっている。善とか悪とか、世界観が変わればその役目も入れ替わることは何度もあった。

          いまは西洋世界の歴史が正統な人類史のような形で進んでいるが、この先はどうなるかわからない。東洋史からみた世界。中東世界からみた世界など、多面的な世界史を理解するとさらにこの世界を面白くみられる。

          世界の発展には、人間の欲望が原動力となってきた。その欲望が分かりやすいのが、輩ともいえる。人間世界を上手に動かすのは、輩的な人間たちだ。またそうした存在がなければ、社会は停滞してしまうだろう。やる気や希望を人に感じさせるのがうまいのも、その人の欲望を見抜けるからでもある。表面的な欲を見抜くことに関しては、輩にかなうものはない。その力を目先の自分のために使っていては、輩という言葉はイメージが悪いままだ。その力を社会の発展に使用したとき、輩という言葉が有能という良いイメージに変わるだろう。

          実際、輩的な才能をより大きなことに使っている人間は、輩とは呼ばれなくなっているのが現状だ。成功者と呼ばれている。以前も書いたが、成功も詐欺も紙一重だ。自分から言わせれば、資本主義自体が詐欺だ。だからといって、社会に参加している人々が詐欺しようとしているわけでもないのは当然だ。人は気づかないままに、大きな枠組みに乗せられている。

          自分の本当の使命を知らずに、表面的な目的で生きている人間個人の姿の延長線上に、いまの社会の姿がある。自分の姿が世界の姿だ。自分を知ることで、世界を知ることになる。自分の歴史が世界の歴史と繋がってくる。世界をどういう世界観で見るか。

          自分の目先の欲望のために生きている人なのか、大義をもって長期的な大きな目的のために生きているのか、決めるのは自分だ。我々は沖縄において、どういう自分像なのかをトコトン向き合って作っていっている。歴史を作っているのと同じなのだ。

          天使か大天使か、悪魔か大悪魔か、どちらがいい悪いではない。自分の力の特性をどのように活かすかしかない。活かすためには、特性を知ることから始まる。

          【2012.04.11 Wednesday 11:49】 author : oz
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          狐と狸の化かし合い
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             世の中は、嘘や綺麗ごとであふれている。だから面白くもある。残念なことは、面白く興味深い嘘や、夢を見られる綺麗ごとが少ないことだ。レベルの低い嘘では、聞かされるほうもすぐに相手の目的が透けて見えて、嘘っぽいけど乗ってやろうかとは思えない。どうせ騙すなら上手にだましてほしいのが人情だろう。

            東電の一連の騒動を見ていると、なんて馬鹿なのだろうと感じるに違いない。勿体ない。折角、このピンチを活かして、さらに巨大企業になれるチャンスにも変えられるのに、機会を活かそうとする意思がないから、綺麗ごとも上手な嘘もつけない。どうせ払わなくてはいけないものならば、何かに役に立つと信じたいのが人情だ。

            千両役者がいないから世間という舞台はしけた三流芝居しか上演されない。そういう意味では、一流の脚本家も演出家もいないのだ。また観客も目が肥えていないから、三流芝居のほうに流れてしまう。一流の良さを伝えようと芝居案内を作っても、観客はそんなものより三流だけどわかりやすくて刺激的な案内を求めてしまう。まさに、鶏が先か、卵が先かだ。

            答えを言えば、順番などない。どれも大事に決まってる。役者だろうが、脚本家だろうと、演出家だろうと、観客だろうと、目の前のことを真剣に楽しもうとするだけで、本物は本物を知る。勉強して、痛い経験を積んで、目が肥えてくれば、自然とモノゴトの良し悪しは見えてくるものだ。楽な道を選ぼうとするから、いつまでたっても狐と狸に騙される。

            楽しようとする心があるから、その心の隙に、悪霊は入り込む。不安にさせ、簡単な判断へと導かれる。人を信じるより疑うほうが簡単だ。悪霊は仲間が欲しいのだ。自分と同じように、人を疑い、いつも不安な状態の仲間が欲しい。自分が幸せでないから、他人には幸せになってほしくない。足を引っ張ることが仕事だ。誰も得がないのに、どうしてこんなことをするのだろう?と思うことはないだろうか?(これもすぐにはわからない視点だが、原点や感謝を忘れなければわかる)悪霊は嫌がらせが目的なのだから、悪霊は悪霊を産むことで得になるのだ。

            嘘も方便という言葉もある。これは前から書こうと思っているテーマだが、伝えるのが非常に難しいためにタイミングを見ている。少しだけ書くと、自分の利益のためについている嘘は、どこまでいっても嘘にしかならない。相手が真理へと到達し、救われるのだとしたら、それは方便になる。最後になるまで嘘なのか方便なのかわからない。だからこそ難しい。

            人は誰しも本当は救われたいと同時に救われたくないという、相反する気持ちを持っている。楽したいからだ。本物になろうとするならば、苦労は覚悟しなければならない。怠け者からすぐに悟ったものになれるわけではない。自分もお気楽な人間から菩薩を志すまで、方便によって導かれてきた。嘘といえば嘘だが、逆に信じ続けたお蔭で嘘が本当になった。
            「嘘から出たまこと」という言葉の通りだ。

            ブッダもキリストも、詐欺師やペテン師だと言われた。ベンチャー企業でも、夢を語り、成功すれば立派な人。失敗すれば、実力がないとか、悪く言えば詐欺師となる。たちが悪いのは、本当に信じて実行して失敗した人と、最初から騙すつもりで失敗した人との見分けがつきづらいことだ。表面だけ見ていては騙される。

            また騙す人のほうが、上手な嘘をつくものだ。自分すらも騙しているから、本人には騙すつもりはなかったと堂々と言うだろう。騙せない人間は、根が真面目だから逆に責任を感じすぎ、背負いすぎて失敗しやすい。真面目脳だけではうまくいかない。

            世の中は、表面しか見ない人が大半だ。綺麗なスーツを着て、流ちょうに話して、理路整然と説明する人間のほうが信用されやすい。失敗しても堂々とされたら、仕方がなかったのかと納得してしまうものだ。そういう人は、次のネタを忘れない。そしてまた次こそはと何度でも騙されるのだ。

            勝てば官軍とはよく言ったものだ。負けてしまえば賊軍。詐欺師扱いなのだ。最初からどこかで負けてもいいと思ってやっているのが、狐や狸たちだ。将来はどうなっても、目先のご飯が確保できればいいのだ。

            今年の決算さえ赤字でなければ。自分が関わっている時だけ嘘がばれなければ。そんな気持ちでやっているから、東電もオリンパスも救われない。ピンチはチャンスなのだ。今こそ、誰もが驚くビジョンを出して、目先の利益ではないことに投資したらいいのだ。どうせ赤字になるのだとしたら、とことん出したらいい。その勇気がないだけだ。

            これは彼らに限った話ではなく、今を生きる私たちの問題だ。何も失うことなど本来はないのだから、勇気をもって、狐と狸の化かし合いから離れることだ。より高度な仕事をする上では、狐も狸も必要になってくることも分かる。この世に無駄はない。すべて必要なのだ。狐と狸が増えたら、それを餌にする猟師になればいい。

            狐と狸が化けている人間なのか、本当の人間なのかを見極める目を持たないと、猟師にはなれない。イエスが弟子に、
            「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と話した意味がこれでわかるだろうか?


            【2012.03.29 Thursday 12:06】 author : oz
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            本物の価値
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               どの世界でも道を極めようと努力している人には共通している特徴がある。本物は本物をすぐ見抜く。偽物はそれがわからない。自分も数多くの失敗をして、少しづつ本物を学んできた。本物ほどわかりづらい。

              何年越しで、人によっては数十年越しで、自分の担当する道で革命を志している人々がいる。いまの権威に挑戦し、破壊して新たな道を創造しようと淡々に進めている。表面は淡々とでも、魂は熱く燃えている。一見、そんなことを志しているとは見えない。

              自分から言わせれば、そういう人物に投資することが一番投資効果が高い。今の投資は短期的な利益しか見ていない。長期とは最低100年、長くて千年、人によっては1万年のスパンで見ている人もいる。道を追求している人は、はした金よりも、道を追求して得られる精神的なリターンのほうが素晴らしいと知っているから、金では動かない。道を極めようとしたことがない人には一生涯わからない境地だ。

              偉大な人物には不遇な時代やひきこもりの時代が必ずある。そうして内省して熟成されなければ、本物にはなれない。こんな話を聞いたことがある。

              明治維新の英雄、桂小五郎は優秀な官僚だった。次から次へと藩の仕事を頼まれ、優秀だからこそ、仕事をこなしてしまう。すると目先の仕事に益々忙殺されることになる。そこである人物が彼にこう言った。

              「このままでは使われる役人になるだけだぞ。仕事は自分がやらなかったとしたら必ず誰かそれを埋める人が現れる。仕事を断る勇気を持って、自分の時間を作ることが大事だ。そうでなければ本当の仕事はできない」と。素直にその助言に従い、実行した桂もスゴい。

              いま自分が手がけている仕事をやめて、何の目的もなく内省する時間をとれる勇気がある人は少ない。そうはいっても家賃がとかカネのことを言い出すのが関の山だ。自分でその選択を出来る人は素晴らしい。

              いまやっていることが、本当に魂の喜びに繋がるのか、何のために生きているのか、自分の使命は何なのかをゆっくり考えたことがない人が大半だ。自分が中心だと思って社長業をしている人であっても、実態は会社に使われているようなものだ。

              どうでもいい情報の渦に巻き込まれ、自分の人生を生きていない。くだらない情報に一喜一憂してしまう。本物でなければ、メッキは剥がれ、無様な姿をさらすことになる。まぁ、それが無様だと感じる感性がある人が少ないから、本人も周囲もそのことに気が付かないだろう。

              美意識はだからこそ重要だ。どんな道でも、美意識なければ極めることはできない。お金があっても、使い方に品がなければ馬鹿にされるだけだ。お金は稼ぐより使うほうが難しいのだ。

              信念のために痩せ我慢出来なければ本物にはなれない。目先の欲に負けずに強く生きている人と会うと勇気をもらえる。

              この前あった方は、確信犯的に実践してきた人だった。教養ある知識人になるには20年は最低かかると覚悟して今まで努力してこられたのだ。頭は良いのだからいくらでも出世の道はあっただろう。それを投げ捨て、信念に生きる。そんな人物にあったことあるだろうか?

              自分たちの周囲にはそのような本物の人物が集まりだしている。そうした人たちと話をするだけで楽しい。お互いの道で苦難を乗り越えてきたからこそわかる実感。あ・うんの呼吸のように話が早いのだ。

              利益ではなく、価値を考えたらいい。どれほどの価値なのかを。それがわからない人は、わかるまで苦労するしかない。体験していない人に教えることは不可能だ。苦労は買ってでもしろと昔の人はうまいことを言ったものだ。

              楽な道だけを選んでいたら、絶対に本物の価値を知ることはない。アップダウンがあるからこそ、物語は面白いのだから。勿論、そのまっただ中にいる時はそんな風に感じる余裕はないだろうが、振り返ってみたら、辛いことこそ良い思い出になるものだ。



              【2012.03.20 Tuesday 11:46】 author : oz
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              人間の原点
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                 困ったとき、迷った時、同じ問題が繰り返される時、すでに枝葉にハマっている可能性が高い。一生懸命にやればやるほど、ドツボにハマっていく。幹という原点を見逃し、枝葉に意識が行ってしまう。

                今年に入ってから、キチンと向き合ってきた人間は結果も出てきたことだろう。いい調子の人も、そうではない不調な人も、今は原点を意識するときだ。更に飛躍するために、好調に戻すために、自分の原点を見つめ、深める時期だ。

                どんな人間も修行の時代がなければ、飛躍はない。それは、一度やったら終わりというものではない。例え成功していたとしても、原点への意識を通して新たな気付きを得る。修行に終わりはない。感謝を忘れなければ、更なる機会に気がつける。原点を思い出せば、ヤル気が更にみなぎってくる。

                今後、人間の原点を感じたいという人間が益々増えてくる。アニメ脳やバーチャル脳が増えれば増えるほど、インターネットの世界も発展する。発展すればするほど、その逆のものを求めだす。ヴァーチャルにハマればハマるほど、リアルを求める。リア充なんて言葉が生まれるのも当然だ。

                仮想現実の世界は、死後の世界と同じなのだ。どちらも、自由に何でも思ったとおりに出来る。抵抗のない世界。イメージが創りだす世界。何でも実現できるからこそ、そこには実感が伴わない。マトリクスの中で、ネオが感じた違和感もそこにある。どんなにリアルに見えても、何かが違うと感じる。

                どの道をたどろうとも、半端をせずに、極めれば極めるほど、本物がすぐわかるようになる。わからない、不安なのであれば、それは半端だからだ。半端に行うのが一番苦しい。トコトンやるわけでもなく、トコトンやらないわけでもない。チョコチョコと様子をみるかのようにやっても、何も見えなくて余計に自分が辛くなる。もしくは半端に見えて、誤解をして否定的にモノゴトを見てしまう。

                徹底的にトコトンやるのは大変なように考えてしまう。辛そうだなとか相手に悪いなとかイメージして、ほどほどの所で自分に妥協して、自分を偽る。自己欺瞞をすると、自分以外のすべてが悪い原因となる。

                引きこもるなら徹底的に引きこもるのだ。飽きるまで体験すればいい。迷惑をかけるならトコトンかけるのだ。半端な優しさは自分にも相手にも良くない。時間の無駄使いだ。我慢の限界は早く来たほうがいい。

                金を稼ぎたいのならトコトンやってみる事だ。自分の限界も欲望の深さも見えてくる。言い訳などせずに、自分に正直に生きたらいい。綺麗事や良い人などやめて、摩擦を起こすのだ。摩擦を体験するために生まれてきたのだから。今の時代、そうしなければ、自然災害で嫌でも摩擦が起きるだけだ。だとしたら、トコトン摩擦を起こせばいい。

                摩擦こそリアルだ。人はぶつかり合いの中でしか、真理の体験をすることはできない。慣れ合いや綺麗事の世界は、ヴァーチャルの世界にいるのと同じだ。摩擦のない世界の究極がITの世界だ。

                話していて嫌になれば、接続を切ればいい。人との摩擦はゼロ。
                どこの誰かもわからないのだから、やりたい放題、言いたい放題。自分との摩擦もゼロ。
                露骨なのは霊の世界と一緒だ。だからこそ見えるものもある。ITが悪いと言っているのではない。

                芸能人のオセロ中島氏のニュースがいい例だ。芸能界で極めたあと、突然の引きこもり。霊能者に何と言われたのだろうか?家族との縁も絶ち、家賃も払わない吹っ切りぶり。すごいことだ。なかなかできることではない。一体なぜそこまでのことができるのか?

                芸能界は元々、以前にも書いたが河原者や穢多非人(えたひにん)と呼ばれる差別された人たちが担当してきた仕事だった。本来は恥ずかしい、笑いものにされてきた仕事で、決して尊敬される仕事ではなかった。そんな歴史的背景も知り、だからこそ良い影響を与えたいと自分の原点を深める。なぜこの仕事に関わったのか?自分の使命は何なのか?

                深めれば深めるほど、以前のように単純な仕事として割りきって仕事が出来なくなる。芸能界の世界で極めたからこそ、その先を求めての苦悩。真剣だからこその悩みだ。真剣に人生に向き合っていなければ、適当に半端に仕事をし続けて、何の問題も報道されることなく生きる選択も出来ただろう。

                だがそれで魂は納得するのか?世間で何と言われようとも、自分の魂と正直に向かい合う人間は少ない。若いのに急逝したホイットニー・ヒューストン。彼女もまた、生きることの葛藤で苦しんだ人間だ。辛い、悲しい、嫌な事のように見える苦しみこそが、魂にとっては貴重な体験なのだ。極めたからこそわかるものがある。

                極めてないものには、絶対に一生理解出来ない世界がある。これから、彼女たちのような人間が益々増えてくる。だからこそ、その受け皿を作っている。人間の原点に気がつくことが出来る場所。それが沖縄であり、我々の拠点であるライラックなのだ。

                沖縄で人間の原点である体を動かすことをし、汗を流す。そこから気がつくものがある。原点に戻れば、今までの経験を活かして飛躍が出来るのだ。本来この世に善悪はない。差別にも善悪とかそういう次元を超えた意味があるのだ。

                パワーがあるから差別される。それについてはまたにしよう。

                【2012.02.13 Monday 12:16】 author : oz
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                宗教を超える道
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                  経済の世界から、日本を変えようとする人たちもいる。それが悪いとは言わないが、自分はそこでは燃えられなかった。なぜ自分はただの経済に飽きてしまったのか?

                  飽きっぽい自分は、熱心になれるものを求めて、会社を起こし投資をしてきた。しかし、どれもこれもすぐに飽きてしまった。好奇心が満たされるだけで魂が燃えないのだ。
                  「飽きるということは、逆に言えば、もっと他に夢中になれる何かがあることを無意識に知っているからだ」と如来に言われた。

                  飽き続けて、やっと飽きないものにたどり着いた。しかし、そこにたどり着けたのは、まるで召集令状のように、有無を言わさず、経済の世界から魂の世界へと連れてこられたからだった。使命は自分ではわからないものだ。人に導かれてたどりつける。

                  結局、経済の世界でどんなに極めたとしても、経済は政治の影響力に置かれている。ライブドアや武富士がいい例だろう。法律で規制されてしまえば、蛇口を閉められてしまうようなものだ。逆に、好きなところで蛇口を開けることもできる。だから政治家に大企業は献金するのだ。消費税がいま世間を騒がしているように、政治であれば企業とは違い無理やり集金できてしまうのだ。いざとなれば罰する力まである。そんな力があるのだから、一生懸命知恵を凝らして、なんとか納税したい気にさせるなどの工夫は生まれようがない。まして足らなければお札を刷れるのだから無敵だ。

                  政治は経済の論理を超える。経済的に不都合だとしても、国のためになるという信念があれば、経済なんてあとでどうにでもできると考えている。どんなに異論、反論、文句が出ようとも、信念を貫く者が政治家だといわれる。経済の論理で政治をやったら、ただの利権政治になり、それが政治屋だ。

                  政治決断のいい例がある。80年代のバブル経済を終わらせたのは、日銀の三重野総裁と橋本龍太郎だ。今では、急激な金融引き締め政策は失策だったと言われている。そのお蔭で日本は失われた10年を過ごしたと。彼らは馬鹿だったのだろうか?なぜゆっくりと軟着陸させようとしなかったのだろうか?

                  彼らには信念があったのだ。ゆっくり着地をさせたら確かにショックは少なかっただろう。しかしバブルで退廃した国民の精神にはショックが必要だったのだ。このままでは国民の精神は荒廃し、日本が壊れるとおもい、あえて急に経済の流れをストップさせたのだ。形のないものを基準に決断し、だからこそ日本人は大切なことに気が付き、経済もまだ維持できたのだといえるのだ。

                  やり直しや言い訳はできない。多くの人間に影響を与えるからこそ、そこには経済の論理を超えた政治の信念がある。では政治の信念はどこから生まれるか?結論から言おう。政治は宗教哲学に影響されるのだ。

                  どちらが正しいとか間違っているというのは、どこに基準を置くかで変わってくる。ただの金儲けを考えるなら、その基準は簡単だ。しかし、民族としては何を選択し、経験をするべきなのか?途端に意見はまとまらなくなる。

                  経済でも政治でも、人間たちの世界のことであれば、対策というものが打てる。その対策が有効かどうかは、本当は問題にしていない。本当の対策など誰も求めていないし、理解できない。表面的な対応をすれば、みな満足するし、言い訳がたつのだ。

                  例えば、失業が多ければ、失業対策のためにあれこれの施策を求め、実施する。それでもうあとは、それがいいとか悪いとか、他に違うことをしろとか、50歩100歩の話しかできない。本当に失業が問題なのか?仕事があっても生き甲斐がない人もいる。仕事がなくても生き甲斐から仕事を作れる人もいる。結局は人の問題は千差万別で一律に解決できるものではない。それを言ったら、大衆は理解できないから納得できない。お役所仕事の範疇を超えるから何もできなくなる。とりあえずホームラン(本当の問題解決)はなくてもヒット(少しは役立つ対策)を狙って、やってみようということだ。

                  人間は対策を立てねば心配でしょうがない生き物だ。では、対策が立てようがない問題があったらどうするだろうか? 自分たちではどうしようもない地震や津波などがおきるとき、人はただ黙って受け入れるのではない。不安を何とかしてコントロールしようとするのが人間だ。

                  では、一体なにをするのかというと、土木工事もするが最後は厄除けの儀式を行うのだ。結局は神頼みで宗教に戻ってくる。お正月の参拝がいい例だ。どこかで神様仏様に救いを求める。

                  地震災害に対して、何とかその影響を抑えようと、地震の神に対して祈祷する。ではその祈祷が、日本なのにキリスト教やイスラム教の方式で祈祷していたとしたら、その祈祷は効くと感じるだろうか?民族に影響を与えようとしたら、宗教的要素は欠かせない。

                  宗教は民族に影響を与える。宗教は習慣だ。お墓参りや行事や儀式を通して、人の無意識に影響を与えている。いまや宗教も形骸化してしまった。意識していないからこそ機能する仕掛けもあるが、現代ではお祭りの意味も分からず、ただ騒ぐだけになってしまった。お祭りは神事のなんたるかなど意識もない。

                   新しい祭りが必要なのだ。自分たちの祭りは、人が生まれ変われるジョイントを中心に行っている。宗教のようだけど宗教のように教義や主義があるわけではない。宗教であって宗教でない。だからこそ最先端なのだ。

                  これから宗教哲学がますます注目されてくる。我々はさらにその先を言っている。そうでなければ、世界がいま抱えている宗教の争いの間に入ることは出来ない。これからアジアは儒教の経済圏ができるとも言われている。

                  そもそも、経済という言葉も、儒教の「経世済民」からきている。原点から経済を理解したとき、経済で大成功したければ、人とは何か?自分とはなにか?を理解するのが早道だとわかる。難しいことから挑戦すれば、最初は大変だが後で楽できる。

                  2月に入ってから、もう経済効果で500億以上の仕事をした。嘘かハッタリか、これからじっくり見ていてほしい。見えないところから固めているので、見えた時には潜水艦のように驚くに違いない。

                  【2012.02.09 Thursday 16:01】 author : oz
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                  空想が世界を変える
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                    「新時代は、アニメ脳とかバーチャル脳とかいうような人種が世界を創っていく」と以前書いたのを覚えているだろうか?
                    新世紀エヴァンゲリオンの秘密」という記事だ。たまたま友人と、時代と若者についての会話をFacebookでしていたときに、アニメ脳について書いたら、面白い感想をくれた。

                    「コスプレは特殊な人だけの趣味嗜好だと思ってたけど、新たな時代の価値観を伝える先行指標であったのかぁ。」と。以前、エヴァンゲリオンを題材にアニメ脳の記事を書いたのはもう二年も前のことだ。

                    改めて、アニメ脳について書いてみたい。アニメ脳とは、現実より空想が優先される脳だ。3次元(現実)の人間より、二次元(アニメ、ヴァーチャル)のキャラクターに魅かれる。現実にいないからこそいいのだ。

                    ファッション誌のモデルに憧れて、同じような洋服を買うのと一見似ているが、キャラの内面や設定をより重視するのがアニメ脳だ。そのアニメの設定(自分の空想含む)と現実をシンクロさせたくて、コスプレをする。恰好だけでなく、その世界観の中で、キャラクターの性格も同期させたいのである。 

                    空想を現実とシンクロ(同期)させたいので、リアルなガンダムが登場すると動かなくても嬉しい。現実にいながら、空想にいる。が、自分のシチュエーションがつまらないから、空想に逃げている人が多いのも確かだ。現実よりも空想世界のほうが面白いのだから、夢中になるのも無理はない。

                    「あの世界に登場したい」現実の世界を、ディズニーランドにしたくてたまらない。その世界にどっぷりと浸ろうとする。空想に浸れば浸るほど、逆にリアルにそれを感じたくなる。

                    本当は現実ほど面白い物語はないのだが、目の前にありすぎてそれに気が付かない。空想世界は、作られた限りのある世界だから、すぐに消費しつくしてしまう。なので、その題材を借りて、新たにストーリを作っていくのが同人誌の世界だ。

                    しかし、空想はどこまでいっても空想である。現実の深みに比べたら、圧倒的な体験が情報量としてある。情熱的な仕事の例として、こんな話を聞いたことないだろうか?ただ石を積んでいる仕事とみるか、教会を作っているとみるかで、仕事のやりがいが違ってくると。

                    教会という偉大な存在を作るプレイヤーとしての自分。これも空想を現実に持ち込んでいる例だ。

                    ヴァーチャル物語の登場人物になりきる人が、燃えてその世界を更につくりあげる。たとえば 、菩薩劇場という物語が、現実に展開している。その意識がない人は、自分がその物語の登場人物であることに気付かない。現実の世界は即興劇のようなものだ。意識しない人がいても、その人は意識しない人の役を担うことになる。

                    この世界では、皆が役持ちで、自覚して動きだせる環境でもある。自覚したら、ただの脇役から主役へと躍り出る。大きな脚本のもとに、いまこの瞬間に物語がつくられている。役を譲り合ってたらストーリーにならない。

                    アニメ脳の人間たちは、現実世界の動きに興味を失っているが、現実が物語を超えることがわかったら途端に燃える。たとえわからなかったとしても、一瞬でもアニメの世界を現実に感じたら熱狂する。それが、単純に言葉のフレーズに惹かれ、その世界に酔っていただけだとしてもだ。

                    江戸時代の日本人もオタクのような職人が、あれこれ技を競っていた。そのお宅芸が世界に受けたのだ。葛飾北斎がいい例だ。今も昔も日本は最先端の視点を持っている。アニメ脳のなかにヒントがあるのだ。

                    今の自分の状況をどんなアニメや漫画、映画のシーンと同期させることができるか?同期できたら、その世界の中で自分が脚本を書けるのだ。こんな楽しいことはないではないか。イメージ持っている人間のほうが、現実をリードするのだ。これも錬金術なのである。


                    【2012.01.29 Sunday 15:11】 author : oz
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                    錬金術の秘密
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                      2012年に入ってから、今まで封印してきたモノゴトを解禁しだした。情報を公開したり、自分からアクションしたりと、新たな流れを作ることを意識している。

                      今までは、あえて真っ向勝負でやってきた。まずは人生を賭けて一緒に戦える仲間を創ろうとしてきた。これに限らず、とにかくやり方も難しいことから挑戦してきたので、どんな問題も余裕を持ってむかえるようになった。仲間が面白い例をあげていたので紹介しよう。

                      「今までは、ただの紙コップを100万円で売っていたようなものですよね。でももう既に100万の価値があるコップなら、余裕で1億円で売れるくらいの実力がついたと自信がありますよ」

                      誤解のないようにいうが、価値のないものを伝えていたわけではなく、真に価値はあるけど、価値がわからない人にとってはただの紙コップと同じにしか捉えられないからだ。

                      まさに豚に真珠、猫に小判である。しかし、そうした人にさえも、価値を伝える努力をしてきたのだ。由緒書きとか保証書、血統書など、わかりやすい表面的な形式が揃っていると誰でも納得しやすい。しかし、そうしたものをなしで、人間力だけで価値を伝える努力をしてきた。

                      わかりやすい説明をしない、もしくはできない(真理は体験するまでわからない)ことで、真に信じるとはなにか?を追求できた。情報を与えて、それで信じるというのであれば、それはただの取引だ。取引で大事なことは、人を信頼するのではなく、その情報やモノが信頼できるか?だ。第三者機関や裁判所といった組織が保証していたら信頼できるというのは、要は情報が大事で、人は誰でもいいということだ。

                      その人を信用出来ないから、契約書が欲しいのだ。とことん信じたくないのだ。限定で信じたいから、限定された契約という形にして、そのことだけを信じる形を取る。契約期間が終了すれば、あとは知った事ではないということだ。

                      「こいつは価値あるコップではなく、紙コップを売りつけているのだろうか?」モノゴトの価値もわからないし、人も信じられないから、
                      「鑑定書見せろ」となる。だとすると、売る方だって、
                      「信じてくれない人に売りたくないな」とか、
                      「だったら高く売りつけてやれ」となるのが人情だ。

                      人の気持ちを悪用した詐欺があるから、契約や目に見える保証を欲しがる気持ちもわかる。信じるものはバカを見るということわざがある。しかし、それは途中で信じるのをやめたからだと言いたい。自分も途中で沖縄詐欺にあったのかもと悩んだものだ。しかし、詐欺にしては真剣な熱を感じたので、
                      「もうこうなったら信じ続けるしかない」と決めた途端に、道が見え出した。信じるものは救われる、のだ。

                      例え、最初は紙コップの価値だったとしても、それを特別な紙コップに出来るということも学んだ。それがわかった途端に、実はそれが紙コップなどではなくて、とてつもない聖杯だったと気がつくのだ。聖杯は一見、紙コップに見えるのだ。これが真の錬金術の秘密だ。

                      インチキをやろうとしても、すぐに化けの皮は剥がれる。しかし、本物の価値ある人間になれば、紙コップでさえも価値をつけられるようになる。わかりやすく言えば、レディーガガが飲んだ紙コップだとしたら、欲しがる人はたくさんいるとわかるだろう。

                      真の錬金術で創った価値であれば、時代を超えて残る。錬金術を表面だけ悪用して作ったモノは、消え去るか、価値がわかる人の元へと流れていく。いずれにせよ、この世に無駄なものはない。


                      いま住んでいる庭にある、お気に入りの苔の生えた岩。雪化粧してるのは初めて。この庭も長い間、たくさんの人の想いを入魂してきて今がある。今も変化を続けている。こうした価値がわからず、時代を超えて残るモノなど創れるわけがない。庭全部を紹介したいが、それは実際に見てのお楽しみにしておこう!
                      【2012.01.20 Friday 12:00】 author : oz
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